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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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大畑才蔵の生涯(紀ノ川の用水工事の先覚者)
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編  
 
前回に引き続き、和歌山県橋本市学文路出身の偉人:大畑才蔵について記します。
 
【学文路の先覚者 大畑才蔵】
1842年、橋本市学文路の農家に生まれた大畑才蔵は、庄屋役や郡役所で仕事に就き、のちに役人にとれたてられ紀州藩に努めることになりました。
紀州藩2代目藩主徳川光貞に用水路開削を命じられた藩役人の井沢弥惣兵衛は、数学に優れ土木工事の経験豊かな大畑才蔵を指名しました。
この時才蔵は、すでに54歳でした。
紀ノ川の水を北川へ引く命令を受けた才蔵は、実に緻密な計画を立て、人数や工事日数を計算し、紀州藩へ報告を行います。彼は用水開削のため、土木技術を研究し、1797年には「水盛台」という独自の測量器具を考案し、藤崎用水や小田用水の開削では、3000分の1から5000分の1という非常に穏やかな水路勾配の精密な測量を行いました。
彼は、74歳で隠居するまで、県内各地や当時紀州藩であった勢州(せいしゅう:現在の三重県内)でも、用水路開削や河川工事に活躍しました。
当時彼がしようした遺品が橋本市郷土資料館に展示されており、「水盛台」の模型が美土里ネット小田井工事事務所に展示されています。農民のために献身した才蔵の偉業を讃える「彰功乃碑」が大正15年に粉河寺境内に建立され、以来10年ごとに小田井、藤崎井両用水の関係者により彰功祭が行われています。
 
【大畑才蔵の生涯】
 大畑才蔵の先祖は、湯川次郎右衛門信光です。
一言:湯川次郎右衛門信光は室町時代の武士です。晴和源氏を源流とする直系の武士で、室町幕府の命で紀州国を守護した畠山氏の家臣でしたが、湯川家はもともと紀州国の土着の一族で、室町時代以前の南北朝時代には、南朝方として畠山氏に対立していましたが、畠山氏の軍門に下り、畠山家の家臣団に編入されました。湯川家の家紋は甲斐国の武田家と同じ四つ割菱で、湯川家の源流は武田家とする有力な説があります。そう言えば橋本市には、四つ割菱の家紋が付いた鬼瓦が屋根にある旧家がかなり多いです。)
室町時代の武士である湯川次郎右衛門信光から数えて第4代目の当主が、大畑才蔵の父:大畑与三左衛門尹光であり、母は妙慶と言います。
一言:湯川家の四代目までになぜ当主の氏名が大畑に変わったのか不思議ですが、畠山氏 - Wikipediaには、「湯川氏…紀伊国の国人。戦国時代後期には湯川直光が河内守護代にもなった。熊野八庄司のひとつ。武田氏を祖とするというが異説がある。戦国時代後期に湯川氏は最盛期を迎え、実質的に畠山氏の軍事力の中核であった。畠山高政時代には、久米田や教興寺で三好長慶方と畠山氏が決戦しているが、その時点での軍勢の半数近くは湯川直光の軍勢であったといわれており、その軍事力の強大さがわかる。後、畠山氏が没落すると、湯川氏は反豊臣的な行動があったが、後に豊臣秀長に降り、その臣下となり、浅野氏に仕えるなどし、浅野氏広島へ転封になると、それに従い広島へ移った。」という記述が有ります。ということは、浅野氏広島への転封に従い広島へ移った湯川氏と紀州国に残った湯川氏があり、紀州国に残った湯川氏は、氏名を大畑に変えたのではないでしょうか。)
大畑才蔵は8人兄弟の次男として、禿(かむろ)村(伊都郡中組学文路村)に寛永19年(1642年)に生まれます。
一言:学文路村はその昔には、禿(かむろ)村と書いたのでしょうか?禿(かむろ)の文字には、「肩までで切りそろえた児童期の髪型。またその髪型をした者。狭義では、遊郭に住み込む童女をさす。」という意味があるのですが、何だか意味深ですよね。)
大畑才蔵は、当時の学文路村が高野参詣の宿所として栄え、大坂や奈良からの人の往来が盛んであり、当時の算数の手本とされた『格致算書』(柴村盛之著)、 『因帰算歌』(今村知商著)なども入れやすく学問を行う良い環境であり、そこに育ったことも大きく影響し、幼い頃から非凡な才能を発揮したそうです。
万治元年(1658年)伊都郡奉行木村七太夫に非凡さを認められ禿組大庄平野作太夫の補佐役である杖突に任命されます。
 寛文4年(1664年)6月、22歳となった才蔵は、 伊都郡奉行より仰せつかり父・尹光の跡を継ぎ庄屋となります。また、郡方御用も務めます。
一言:紀州国に土着した名家であったであろう大畑家の氏名からは、大きな畑=領地を持っていたがゆえの氏名と解釈できますよね。)

 才蔵は、寛文9年(1669年) 伏原村(現・橋本市高野口町)才右衛門とともに高野山内聞役を命じられますが、その任命を受ける以前から既にすぐれた測量技術や土木工法を習得していたことから、後に紀州流治水工法を開発することとなります。
注釈3.紀州流の治水工事と新田開発には紀州流治水工法の項目には、
「宝暦9年(1759)常陸の人、眞壁用秀の『地理細論集』(日本経済叢書)の「川々御普請心附之事」には、関東流、紀州流の名称は使用されていないが、享保の初め宝永頃より治水工事が丈夫になり、河川を直線化し新田開発が進められたが、かえって洪水被害も大となったと記されている。この河川の連続堤と新田開発が紀州流とされている。
関東流と紀州流の工法は、その地形的条件にあって利用が異なったが、その特徴は、関東流は分散型であり、紀州流は直線型ともいえる。
 関東流の治水新田開発は、河川の蛇行を利用して、洪水時に水量を分散せしめるもので、流路の所々に遊水池をつくり、また乗越堤をして河川を下流の平野に洪水被害を軽減し、さらにこれらの周辺に河川より分流または支流より本流への排水をはかる新田開発方式を採用したのである。関東流の発生は、関東平野を流れる利根川が関東ローム層の台地を侵食する低湿な侵食谷を流れ、沼地も多い地形環境で流速も遅く、支流の排水も遅い低平な地形条件から成立したとも考えられる。いまも利根川流域では建設省による遊水地や洗堰がコンクリートで建造されているのである。
 これに対し紀州流は、上方流を源流としたもので、古代より淀川の茨田堤(『日本書記』)や近世の大和川の川違えの附替工事による新大和川と鴻池新田の成立が河内国中甚兵衛に見られるように、堤防の強化と直線的に海に洪水流を早く流し、曲流部の旧河床や氾濫原を新田開発する一石二鳥の工法であった。とくに強固な二段に固めた連続堤の構築が重要な技術であった。この工法で井沢爲永は信濃川下流や関東平野の江戸川両岸の飯沼をはじめ新潟平野の紫雲寺潟などの土木事業がある。
 なお紀州流の場合も、甲州流つまり関東流の堤防強化策の犬走り的堤防を採用しているものである。」と記されています。)
 
才蔵は寛文11年(1671年)29歳の時に10歳年下である同郷の六左衛門の娘・菊とめでたく結婚。
元禄5年(1695年)、高野山の学侶行人派両派の対立は、幕府が学侶方の主張を認めて行人方を弾圧したのですが、この弾圧の際、才蔵は高野山内聞役として高野山の行人派寺院約1000 院の取り壊し、僧600 人余りの島流しという高野山弾圧に関与することになります。
しかし、才蔵は内聞役については気が進まなかったようで、「他見無用」と秘密扱いにするよう子孫に命じています
一言才蔵は役目柄、仕方なく徳川幕府による弾圧に加担しますが、本心では幕府のやり方に反対だったのですね。)
才蔵が高野山内聞役だったのは、五代将軍徳川綱吉の治世=元禄時代です。当時紀州藩和歌山県三重県のほぼ南半分を支配し、他に類を見ない五万石の領地を持っていましたのですが、深刻な財政難に悩んでいました。
藩は、元禄4年(1691年)から財政立て直しのために農政の改革に取りかかります。
元禄9年(1696年)3月24日紀州藩会所役人御勘定人格井澤弥惣兵衛為永、大畑才蔵に地 方手代(郡代官の配下の地方役人)となって詰所に勤務し、新田開発や洪水対策さらには農業の技術を活かすよう要請した。翌日、3月25日に添奉行田代七右衛門は、才蔵を呼び「貴公の希望は井澤殿から聞いた。希望通り在所に在って結構だが、御用の節には必ず罷まかり出でよ。その節には出扶持(藩から支給される手当)3人扶持を与える。また年に銀貨10 枚を与える」と申し付けます。
この命を受けた才蔵は、まず手始めとして この年(1696年)小田井筋や那賀郡の水盛水平器(水により水平を出す方法)により、池の調査を行い、紀州藩内を調査し治水計画を立てます。
そしてその翌年の元禄10年(1697年)閏2月から36日間、9月から53日間の2回、勢州3領の村々を視察し、伊勢一志郡新井の水盛(水による水準測量)を行う一方で、 元禄10年(1697年)4月19日から57日間、両熊野(口熊野、南熊野)地方を巡検し、巡検後に「熊野絵図」を作成します。
更に才蔵は、神谷与一右衛門と共に紀州藩支高森藩葛野藩に、遣されます。
注釈高森藩葛野藩は、紀伊和歌山藩主徳川光貞の三男である頼職と四男の頼方(後の八代将軍吉宗)が越前に拝領した領地のことを指しており、当時は紀州領と呼ばれていた。頼職は元禄10年(1697年)4月11日に五代将軍徳川綱吉から越前丹生郡内に63か村(割郷2か村)3万石を拝領し、頼方も同日に丹生郡内13か村6,579石9斗3升4合と坂井郡内32か村(割郷1か村)2万3,420石6升6合あわせて三万石を拝領した。これにより、紀州藩は、陣屋の設置場所や知行所の実状を把握するため、同年7月から8月にかけて、頼職領・頼方領を実地見分した。
彼等は、越前丹生郡笹谷村と北山村を拠点に、33里17丁(約132km)に及ぶ村々を巡見しました。
元禄11年(1698年)、雲出川の本流に既存の古田井堰より大規模な井堰を設けることとなります。
これが、才蔵が設計管理した勢州一志郡新井堰で、『南紀徳川史』「郡制第五」にその工事に関する記述が残っています。
勢州一志郡新井堰の工事では、小木戸橋の近く、現在の一志町其村に井堰をつくり、宮古村(現嬉野町)前の中村川までの水路を整備し、古田井同様、中村川へ落とし、そこからは旧来の星合井の井溝を拡張し、村々への灌漑用水とします。日数65日間、延人数2万4,230人がかかった大工事となり、多くの経費も必要でしたが、これにより16ケ村内の282町の水田が永く干ばつから免れるようになります。具体的には、この工事によって畑地から水田となったものが60ないし70町、新田開拓が10町歩に及ぶと見込まれ、元禄9年(1696年)から元禄14年(1701年)にかけて開削されました。
 
そして肝心の紀の川における才蔵の仕事ですが、当時、紀の川右岸地帯は、中小のため池と小河川こ依存するのみで、干天つづきには枯渇する不安定な耕作地でした。
この 紀の川流域における工事は、現在の紀の川市(旧那賀町)藤崎から和歌山市山口まで約23.5kmに及ぶ紀の川から引水した大規模灌漑用水工事となります。
これにより、それまでは畑作地帯であった地域のうち、約1万町歩を灌漑することができるようになり、水田となります。紀州藩の財政の建て直しに大きく貢献することとなったのです。

才蔵の主要な功績の一つである小田井は、宝永年間に、大畑才蔵が藩主吉宗の命を受けて着手し、高野口町の小田を起点として打田町にいたる約27kmの水路を施工します。
 天下の暴れ川である紀の川に堰を造ることは、想像を絶する困難であり、出水のたびに工事途中の堰は流出します。加えて小田井を通すあたりは河岸段丘が出入りする複雑な地形で、ここに堰から得た用水をどのようにして流すかも難工事だったのです。
そして第一期工事は宝永5年(1708年)に完成させます。
 小田から根来川にいたる小田井用水路の工事は三期にわたりますが、正徳5年(1715年)、才蔵は74歳という高齢になったため藩に辞職することを願い出ます。
先進の技術を習得し、抜群の発想力をもって紀ノ川の治水工事に精根を傾けた才蔵でしたが、ついにその完成を見ることなく享保5年(1720年)、その生涯を閉じたのです。
 一言:若き日、高野山弾圧に関与するという才蔵自身にとっての生涯の汚点も、紀ノ川の治水工事という偉業に立ち向かう大きな原動力になっていたのかもしれませんね。)
 
イメージ 1
小田頭首工の説明板にある大畑才蔵についての説明書き
 
イメージ 2
小田頭首工上流の様子(台風11号西日本通過翌日)
 
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