|
〜天野の里の史跡:和歌山に台頭した武士の歴史〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編
今回は平安時代から出現した武士が、和歌山ではどのように台頭し、その後の変遷はどうだったかをご紹介します。
和歌山における武士の活躍
1.守護・地頭
義連は身長六尺五寸 、弓道と馬術に優れ武略に長じ、有名な一之谷の鵯越(ひよどりごえ)に先陣をした功により、和泉・紀州の守護とされたのである。
しかし、かれの死後は、1207年の院の熊野詣の駅家(うまや)雑用を担当したため、“無指事外(むしじがい)”すなわち、重要なことがないjかぎりは、守護を置かないことにした。
必要な時だけに置かれた守護代には、義連の曽孫佐原重遠や源朝治(ともはる)・基治(もとはる)らが任命されたことがあった。
南北朝時代になると、紀州も動乱の渦中にはいり、建武年間(1334〜35)には北朝のもとに北畠国清が、1364年ごろ細川宗茂が、またその後、山名義正なども守護となたが、いっぽう南朝のほうでも浅野覚心(かくしん)・浅野忠成・保田宗兼を守護とし、南北両朝ともに勢力の拡大をはかった。
しかし義弘もまた、1399年にそむいたので、義満は畠山基国などにこれを攻めさせ、基国はその功により守護となった。
これから後は、畠山氏が代々守護職をついだが、南朝に見方する豪族が多かったので、守護とはいっても、その命令は徹底しなかった。
2.藤原鎌足を先祖とする隅田党と湯浅党
隅田党は伊都郡隅田荘を中心として活躍した武士団で、25家あるいは29家からなる。
初代は1111年に隅田荘の公文職(くもんしき)に、さらに鎌倉時代になると、同荘の地頭職となった。
隅田荘は、隅田村・恋野村・紀見村からなり、石清水八幡宮の別宮である隅田八幡をまつった。
隅田家が党の中心で、このほかにも多くの姓をことにするものからなっていたが、南北朝時代のころから、おのおのの姓の上に、“隅田”の二字をつけるようになり、地域と信仰をともにして同族的な決断をつよめ、合議制ですべてのことを決定した。
(注釈:党とは、中世武士団の存在形態。著名な「武士の党」としては,紀伊国隅田 (すだ) 党,湯浅党,肥前国松浦党,武蔵七党などがある。惣領制的武士団が惣領を中心に強固な族的結合を示したのに対し,党と呼ばれる武士団には惣領に相当する者が存在せず,独立割拠した弱小武士団が同族的結合をし,党と呼ばれた。)
このような分散形態をとっており、かならずしも血縁関係だけで構成されてはいなかったが、すべて一族と称し、つねに団体行動をとった。
使者をよそにだすときには一族で費用を負担しあい、おのおのの家はそれぞれの紋章をもっていたが、別に党全体をあらわす紋章もさだめていた。
威勢さかんなころの隅田党は、1331年、一族の頭領である隅田次郎左衛門通治が六波羅探題の検断(けんだん:治安・刑事裁判にあたる)となり、重要な合戦には、六波羅軍の大将として出陣しているが、その後、六波羅が足利尊氏によってほろぼされると、後醍醐天皇がわにつき、南朝に味方した。
ついで大内氏が紀伊国の守護となると、これにしたい、その失脚後は守護畠山氏の支配下に入った。
こうして隅田党はいろいろな地方で先頭に従事したが、そののちは特にみとめられることもなく、やがて故郷にかえり、農業に従事するようになった。
湯浅党は平安時代のなかばごろから、有田川下流の湯浅を中心として形成された武士団として有名である。その祖先は湯浅宗重とされている。
平清盛が熊野詣の途中、平治の乱を知り、紀州からすぐにひきかえそうとしたときに、宗重は三十余騎をひきつれて応援し、清盛は無事、六波羅に入ることができた。
以来、湯浅党は平氏の盛時には有力な家人といわれていたが、平家滅亡後はたくみに源頼朝に同心し、源頼朝・義経の不和にさいしても、紀州武士の多くが義経に味方したにもかかわらず、かれのみは頼朝に忠誠をつくしてその信頼をえた。
それから後は、特に鎌倉から下知(げち)があった場合をのぞき、守護の要求にもしたがう必要がないとされて、鎌倉御家人としての地位が確定した。
こうして政権の変革期をたくみにのりこえた宗重は、平家の家人として確証され、地頭としてさらに勢力を拡大した。
宗重以後は湯浅荘の地頭職をついだ宗景の系統と、保田荘・石垣荘などの地頭職をついだ宗光の系統がとくに有力であった。
湯浅氏を中心とする湯浅党も、血縁関係によって構成され、党内部でも婚姻をくりかえして、いっそう強固な団結をつくりあげ、鎌倉時代末期に、同族意識につらなる数人の領主の横の連合によって党はつくりあげたものである。
しかし、赤坂城に楠正成を攻めるまでは一族の団結はつよかったが、1332年、楠氏にとらえられてからは、統制力をうしない、個々に行動するようになった。
また南北朝時代を通じて、内部は小武士団にわかれ、鎌倉武士団から室町武士団へと、惣領を中心とした強力な武士団に成長できずに没落した。
3.荒河の悪党
“悪党”というのはもじどおり盗賊などの悪者を意味するほか、中世社会では荘園領主や幕府に抵抗した乱暴をはたらく地頭や名主などもこうよばれた。
このような意味から楠正成も悪党であった。
これらの荘園では荘園内部のあたしい勢力が、荘園領主である高野山に対抗しようとして、このような悪党の形態をとったものであろう。
荒河荘の悪党とよばれるものには、荒河の有力者の一部を中心として、他の荘園のものも参加しており、血縁的な関係によるもので、それぞれの下人・家人もふくまれていた。
悪党の攻撃の対象はまず領主の高野山で、年貢をおさめないばかりでなく、荒河荘に住む高野山がわのものをも攻撃した。高野山内にも悪党に味方するものがいたようである。
このような実情は、高野山内部における新旧勢力の対立、荘園における高野山がわと反高野山がわの武士団の対立ともみられるのであろう。
周辺の守護・守護代は、寺と対立する悪党がわに同情的であるのがふつうで、荒河のばあいも例外ではなかったようである。
しかし悪党は、いっぽうで高野山にたいする反抗を農民にたいする乱暴に転化するとともに、純然たる泥棒行為もしたために、一般の指示は得られなかった。
4.南北朝と紀州
この時代には南北両朝が対立していたが、両朝の戦いを「太平記」を中心にみてみよう。
熊野の戦い(1336年)3月
熊野の色川森氏が南朝に味方し、那智などで北朝方と戦い、5月27日は新宮山で、足利尊氏の一族である石堂義慶・熊野方眼をやぶり、義慶らは数百隻の船を奪って京都ににげようとしたが、これを海上に追撃した。
任義荘の戦い
海部(あま)郡任義荘西光寺にあった南朝方の城にたいし、1337年4月、北朝方は細川皇海を将として攻撃し、5月1日、城は焼け、城兵は離散した。
阿瀬河城の戦い
1348年、北朝方は紀州の南朝方を攻撃し、同9月に在田(ありた)郡の阿瀬河城を落として日高郡にはいり、事態が平静になったところで兵をひきあげた。
竜門山の戦い
阿瀬河の戦いで弱まったかにみえた南朝の勢力は、なおその各地に力をもっていた。
1359年、南朝方の四条中納言隆俊が、紀州国の初峯一帯に陣どっていることが南朝方の耳にはいった。そこで同4月3日、畠山義親が大将となり、三万余騎の軍勢でこれを攻撃することになった。
まず和歌山市和佐山に陣をかためて攻めようと、塀を塗り、櫓(やぐら)をつくった。そこで、最初峯を守っていた主力の塩谷伊勢守は兵をつれて竜門山に転じ、これで対決しようとした。
ところがこれをみた北朝方は、南朝軍が退却したと即断し、じゅうぶんな準備もないまま攻撃した。
ところが竜門山は岩がるいるいとし、松の深くしげる道は湾曲し、下草には小篠(こざさ)がしげって馬もすすめぬ要害の地であった。
竜門山を攻めのぼる義親の三万余騎をむかえ討つ南朝軍は、一矢に二人を射倒すほどの意気ごみであった。山肌にはりつき身体きわまった北朝の軍勢にむかって、時はよしと伊勢守みずから先陣に立って野上・山東・貴志などの兵2000余騎とともに、大山をゆるがすほどの時の声をあげた。
驚いた北朝軍は、たちまち総くずれとなり、負傷者を助けるどころか、馬や武具さえすて、くずれおちるように30町ばかり逃れ、南朝方は大勝した。しかし、塩谷伊勢守は深追いをして、槍で二か所の深傷をおい、馬に三本の矢をうけ、けわしいがけを真っ逆さまに五丈ほども転落して、戦死した。
この戦いで北朝方は捕虜となったもの67人、討たれたもの273人、そのほか捨てて逃げた馬・よろい・弓矢・刀など、おびただしい数にのぼったという。
同年4月11日に再び7000余騎で芳賀伊賀守らが伊勢にむかったが、こんどは湯川荘司が心がわりして北朝がわにつき、舟をそろえて攻めているという報告がはいり、守備軍のなかにも、北朝方につくものがでたので、南朝方はついに竜門山をでて、阿瀬河の城にしりぞいたという。
なお、このころすでに熊野の水軍は大きな勢力を持っていたので、南朝方はこれに目をつけ、彼らを鹿児島に派遣し、1347年、同地の南朝方を助けさせ、津島勢を苦しめた。
|
全体表示
[ リスト ]






