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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜天野の里の史跡:有王丸(平清盛を倒そうとした俊寛の召使)の墓
     サブタイトル:オヤジブログは自由だ!和歌山編  
 
和歌山県伊都郡かつらぎ町にある天野の里には、『有王丸の墓』という史跡があります。
その説明板によると、
俊寛僧都の召使(めしつかい)であった有王は、鹿ヶ谷の謀議に破れて喜界ヶ島に流され、寂しく世を去った俊寛僧都の遺骨を、1179年5月に高野山へ納め、法師となって主の菩提を弔い、天野に住み生涯を終えたと言われているそうです。
また、俊寛の娘も12歳で天野の別所で尼になったと『源平盛衰記』には記されているとか。
説明板の文末にある「有王は、俊寛僧都の遺骨を頸(くび)にかけ、高野へ上がり奥の院に納めつつ蓮花谷(れんげたに)にて法師となり、諸国七道修行して、主の後世をぞ弔ひける。」という記述は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)の中に記さてているようです。
注釈:『召使(めしつかい)』という言葉は、現代で言うそれとは少し意味が事なり、日本の律令制における役人の役職の1つで史生や使部の下で雑役などを務める者のことだそうです。)
 
上記の説明板の内容により、有王俊寛僧都という人の召使であることはわかりました。
ですがその俊寛僧都という人がどんな人なのか?また、鹿ヶ谷の謀議とはなんなのか?については説明が無いのでさっぱりわかりませんよね。
 
鹿ヶ谷の謀議(鹿ヶ谷の事件)とは
安元3 (1177) 年5月,平清盛を中心とする平氏政権の強勢に対して,これを倒そうと志した後白河院の意を受けて,上記4人のほか,近江中将成正,山城守基兼,式部大輔雅綱,平康頼,平資行らが参加し,摂津源氏多田行綱北面の武士の武力に頼って清盛討滅を俊寛の山荘で企てたが、源行綱(多田行綱)の密告により発覚したとされる事件のことです。
この謀議の発覚により、成親は備前に流罪後処刑、西光は処刑、俊寛らは喜界島(鬼界島)に流されます。
これには当時の二大勢力である後白河天皇方と、崇徳上皇方との覇権争いが根本にあるようです。つまり院勢力=崇徳上皇方(成親、西光、俊寛ら)と平氏、寺院勢力=後白河天皇方(明雲、僧兵)が関わっていたとか。
 
鹿ヶ谷の陰謀と平家には、この事件にかかわった人物像が以下のように簡潔に紹介されています。
平清盛
平忠盛の嫡子。白河院(後白河院の曾祖父)の落胤(らくいん=隠し子)といわれ、母は祇園女御の妹とする説が有力。武家としては初めて太政大臣従一位の極官に昇り、平氏政権を現出した。その居館が六波羅にあったことから、「六波羅殿」「六波羅入道」と呼ばれた。また「平相国」「平禅門」とも称された。
藤原師光(西光)
平安末期の院の近臣。平治の乱後に出家。後白河法皇の近臣として権勢をふるう。1177年4月、子の師高が「白山事件」で配流されると、翌月には院に奏請して天台座主の明雲を伊豆に流させた。また同じころ鹿ヶ谷の陰謀に参加したが、事が発覚して6月1日に捕えられ、斬られた。
師高(もろたか)
西光の嫡男。「白山事件」において、弟師経ともども処罰をうけた。師高は治承元年4月尾張国井戸田に配流。鹿ヶ谷事件において父西光が処罰されたことに連座して同年6月、配所で殺された。
明雲
平安末期の天台宗の僧。1167年、天台座主に就任。後白河上皇と平清盛の戒師としても知られる。平氏と親密であったことから「白山事件」の際に、責任を反平氏の近臣(西光)らに問われ、1177年座主職を免ぜられた。伊豆配流の途次、延暦寺僧徒によって奪還されて山に帰り、1179年清盛が院の近臣らを追放するとともに、座主にかえりざいた。
後白河法皇
1158年に二条天皇に譲位して院政を開始。以後、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の5代30余年にわたって院政をしいた。生涯を通じて造寺、造仏や院領の増加に尽力し、また平安末期から鎌倉幕府の創期にかけての激動のなかで、権謀術数と果敢な行動力をもってことにあたった。
藤原成親
西光の兄。後白河法皇の寵臣。西光、俊寛らと平氏追討の謀議を謀り発覚。鹿ヶ谷で逮捕され、平重盛のとりなしで死罪を免れ、備前国に流罪となったが、3ヵ月後、難波で清盛によって殺された。
平重盛
清盛の長男。通称小松内府灯籠大臣。平隆盛とともに昇進し、従二位内大臣にまでなった。『平家物語』では鹿ヶ谷事件の際、清盛が後白河法皇を幽閉しようとしたのを諌止するなど、性温厚で沈着な人物として描かれている。
源行綱(多田行綱)
後白河院北面(いわゆる北面の武士)に加えられ、安元三年(1177)院の近臣藤原成親らと鹿ヶ谷の陰謀に参加。しかし、彼らの計画が単に虚勢にすぎないことを見抜いて同年5月29日、清盛に密告した。このため死は免れたものの、安芸へ流罪となった。
俊寛
後白河法皇の近臣。法勝寺執行。鹿ヶ谷後、藤原成経、平康頼とともに薩摩国鬼界島に配流された。翌年中宮平徳子の安産を祈る大赦に俊寛だけは許されず、同島で没っした。有王の主人。
 
鹿ヶ谷の謀議(鹿ヶ谷の事件)の背景については、後日ご紹介したいと思いますが、
明日は我家の近隣でサマーボール(橋本市の夏祭り)が開催されます。
恐らく次回はその報告となるでしょう。
 
イメージ 1
有王丸の墓
 
イメージ 2
恐らく、有王丸を供養する石碑
 
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