|
〜 豊臣秀吉の埋蔵金伝説は多田銀山に?いやいや、ダム湖の湖底に〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!遠出編
今回は、『龍化』の名にまつわる伝説はないかと調べてみたことで知り得た伝説をご紹介したいと思います。
今回ご紹介するのは、一庫ダムによってできた知明湖(ちみょうこ)にまつわる伝説です。
私が『龍化』にまつわる伝説を知るためにあれこれ検索した中でヒットしたページの一つに『』豊臣秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山)がありました。
こちらの管理人は、、一庫ダムが建設される当時、水資源開発(ダム)と地域整備計画に携わっていた昭和46年、その山中現地を調査する任にあったそうです。
話は一庫ダム建設前の調査段階にさかのぼります。
豊臣秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山を私なりに要約すると、、 ダム建設予定地の周辺には、無数の旧廃坑があったそうです。
(ここで言うダム周辺とは、湛水地区周辺や山の斜面裏側、、知明山周辺地域の川筋で、道から見上げて5〜20m程高い位置の斜面、鉱山関係者の部落から距離がある深山幽谷の感すらあった田尻川と保谷川合流地点も)
そしてこれらの旧廃坑は、ダムを建設して巨大な貯水湖を生み出すには水抜け水漏れの危険性をまねく存在だったのです。
ところが、昭和46年当時は高度経済成長第二期の末期でした。
この時代の日本はまだ現在のような経済大国の地位を得ていなかったため、鉱物資源確保を国是として他人の土地でも勝手に鉱区試掘権を設定できるという私有財産権すら制限する法律が存在していました。
そのため、ダム潅水時に水漏れの原因となる旧廃坑はこの法律の適用を除外する特例地として指定するために調査は行われたのです。旧廃坑は全てコンクリートで埋め戻すというダム建設に向けた指針に従って。
ここまでの記述は一庫ダム建設以前の史実ですが、これ以後の記述はいよいよい古い伝説にかかわるお話です。
【豊臣秀吉の埋蔵金伝説】
伝説が広く知られるようになったのは1949〜50年ごろだ。多田銀銅山に4億5000万両を埋蔵したとの記述がある巻物や絵図が発見された。埋蔵金を埋めた場所を指し示す巻物もあったという。
これはぜひ手に入れたい。
ところが壁にぶち当たる。巻物などはコピーを含め一部の研究者しか持っていない極秘の文書だからだ。ある関係者は「埋蔵場所を特定した文書が広く出回れば、一獲千金を狙う山荒らしが増えて地元に迷惑をかけてしまう」と解説する。
しかし、豊臣秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山 は、
「慶長3年(1598年)6月、病床にあった秀吉は、豊臣家の将来・危急の時のために、大阪城御金蔵にあった4億5千万両(現在では約200兆円)を摂津の国、多田銀山の21カ所に分けて埋蔵したと伝えられています。」という書き出しで始まります。
の画像に一庫ダムと湖の位置を挿入
多田銀山絵図(「柵内銀山町御用地略絵図」)
ここからは 秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山)の記述のみを取り上げます。
秀吉の埋蔵金伝説は、一般的には一庫ダムにかかわる伝説ではありません。
埋蔵及び管理に携わった者や一族の遺した文書からは、瓢箪間歩、新千石間歩など5箇所の坑道が示唆されていることから、埋蔵金は瓢箪間歩や台所間歩などのある当時全盛を誇った銀山町(現在の猪名川町銀山付近、通称多田銀山)内の豊臣家直轄又はゆかりの坑に秘匿されたと想像されてきたのです。
以来、徳川家康を始め江戸幕府による探索、明治新政府以降の鉱物資源開拓確保の国是の基に進められてきた鉱山開発、加えて一攫千金の夢を追う個人又は集団の探索者たちの努力も空しく、未だに埋蔵金は発見されていません。 ここに至って 秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山)の管理人の一考察が始まり、一庫ダムにかかわる伝説として紹介されるのです。
「そもそも多田銀山というわざわざ後世の他人が採掘を手掛ける可能性の高い良鉱脈が集中する銀山町に隠すのは得策ではありません。秀吉が騎馬のまま出入りしたと伝えられている誰でもが注目する瓢箪間歩などをダミーにした陽動作戦の可能性が高い。
そこで、知恵者豊臣秀吉が大阪城御金蔵の大枚を埋蔵秘匿する場所を決めるとするならば、その条件・要点をどう考えたのか、推測してみました。
(1)万一、徳川家康などが探索した場合に、違った箇所・地域へ誘導する。
ダミー地は、銀山の賑わいの真っ只中とし、わざと文書で遺す手配をしておく。よって、猪名川町の銀山町周辺はそれらしく装うが、対象とはしないでしょう。 (2)周辺に大きい村や部落が無くて、周りから見通しが利かない場所。
川西、池田、箕面では村落が多くあり、麓からでも山中の動きが覗えるなど人目に付きやすい。 埋蔵、再採掘の作業を外部から隔絶する処置が採り易い奥まった谷間、川筋が良い。
(3)後世の埋蔵金回収が比較的容易な場所。
そのため、大阪城から比較的近距離にあること。宝塚、三田方面では奥過ぎる。また、標高の高い山中に分け入ったりしないで、河道・川筋が洪水で溢れても埋蔵した坑口が安全な位置にあること。 川筋の道から少し高い位置に多数あって特定されにくい廃坑が適当。
以上の条件を満たす地域はまずは一箇所。銀山町より大阪に近い人里離れた山中の奥まった峡谷で、ダミー作戦のために大阪から人目の多い箕面、池田、川西をあえて通るが、銀山町ではない地域。
現在の川西市、豊能町にある、大路次川と田尻川の合流する知明山東側の川筋しかありません。
今は水資源開発公団によって一庫ダムが建設されて水没してしまっていますが、以前の古来からの地形を知っている者としては確信できます。
下図の緑色の部分は山または森林、白い部分は集落、点線は街道、黒線は現在の市町境界線です。赤い「×点」が候補地です。要するに、人里離れて人目に着かず、街道からアクセスし易い拠点はここしか無いのです。」と。
秀吉の埋蔵金が眠る場所を×印で示した地図
そして管理人は、
文末に「今、一庫ダムは堤高75m、堤長285m、3300万tの水を湛え、洪水調節のほか上水道、灌漑用水などのための多目的ダムで、阪神地域の人々の水瓶となっています。知明山周辺は、自然公園・親水公園、ゴルフ場、キャンプ場、フィッシングサイトなどとして市民の憩いの場となっています。
4億5千万両の財宝を埋蔵した廃坑は厚いコンクリートや石材で埋め戻されシールドされて一庫ダム(知明湖)の湖底にひっそりと埋没し、二度と人の目に触れることはないでしょう。 」と締めくくっています。 以上が夢とロマンの豊臣秀吉の埋蔵金伝説です。
ところが、徳川埋蔵金や豊臣秀吉の埋蔵金とかは実際に ...- Yahoo!知恵袋には、
「徳川埋蔵金や豊臣秀吉の埋蔵金とかは実際にあると思いますか?まだ掘ってるのかな?もし掘り当てたら誰のものになりますか?」という質問に対して、
ベストアンサーは、
「秀吉の埋蔵金は幕府の命令で掘り出されてしまったのでもうありません。掘り出した場所を記した地図が現存し、埋蔵したとされる箇所全てを発掘した記録がない事から「まだ残っているに違いない」と誤解されているだけで、実際には単に最後の方は記録の必要が無いので記されなかっただけのようです。発掘済みの場所にチェックを入れる為のメモ書きのようなものですから、全部の発掘が終わればもうチェックの必要は無くて当然ですよね。
徳川埋蔵金も無い可能性が非常に高いです。他の方も仰ってますが徳川幕府は貧乏で、焼失した江戸城本丸御殿の再建や長州藩征伐の軍資金すらままならないほどの財政難にあえいでいたのです。 (一言:それなら江戸城本丸御殿の再建を現代の東京オリンピック新国利競技場のプランのように縮小し、長州藩征伐もやめればいいじゃん。)
埋蔵する余裕などあろうはずがありません。そして江戸城開城の際に金庫が空っぽなのを見た薩長の人々が「密かに運び出してどこかに隠したのではないか」と疑い、当時巷間で流布していた「小栗上野介が密かに何かを大八車に積んでどこかへ運び去った」という噂とが結びついて埋蔵金伝説が生まれたのです。実際には小栗が運び出したのは火薬で、一部は上野の戦いで彰義隊が使用し、残りはどこかへ隠されたとされています。赤城山に埋まっているのはあるいはこれかも知れません。」ですって。
(一言:冷静なる大人のご回答だとは思いますが、これでは夢もチボウもありませんよね。10億円の当たる宝くじしか。)
(私見です:ここに言う幕府とは徳川幕府ですよね。ということは、徳川家康は、大坂の陣で大阪城の堀を埋め尽くし、豊臣家を滅ぼし、その埋蔵金を掘りつくして独り占めしてしまったということになります。本当に悪い奴です。本来大阪人の私としては、全くもって許せません。と思うのです。)
|
全体表示
[ リスト ]






