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〜摂津国の九頭龍伝説と摂津国の特異性〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!遠出編
今回も伝説を一つご紹介します。
伝説はその頃のお話です。
伝説をご紹介する前に、古代の摂津国とはどんな国だったのかについてご紹介しておきます。
摂津はちょっと変わった国で、他の日本の地名は河内、和泉、山城など地形や、植物など自然物にちなむ名が多いのに、この国の名の『摂』は「治める」、津は「港」、直訳すれば「港湾局」という意味になるそうです。
そしてその中心であった難波宮周辺の境界線は直線で、まるでアメリカやオーストラリアの州の境界線のようだそうっです。
当時の日本国内で同じような直線的境界線をさがせば、京と太宰府が該当するのですが、この3者に共通するのは、伝統的でないこと、つまり時代に必要とされる機能をもち、国が大規模工事をおこなって強引につくった施設だったということです。
言いかえれば、摂津国は古代より人による整備・開発が特に進んだ施設を有する施設があった国だったということです。
さてその理由ですが、
それは攝津が、当時の国際海上交易のターミナルであり、その繁栄ぶりは弥生ー古墳ー飛鳥・奈良時代へと右肩上がり状態にあり、しかも人口の多い(都に近い)難波へと集中していったからであろうと紹介し、
経済人類学では摂津国のような国際港の特異性は、 1.港の区域は政治や生活の場所から孤立した状態におかれる。
2.複数の言語がはなされ、
3.異なる国の人や物品がい入り乱れている、物品税をかけない。
と指摘していることも併せて紹介しています。 国際交易は文化や財のとりこみ口であるという利点を持つ一方、軍事的侵略や伝染病の蔓延などの危険性をはらむ。 であれば、都と国際港の距離の問題はひじょうに興味深い。難波は「宮」として応神紀にはじめてあらわれ、仁徳、継体、孝徳、天武紀にも書かれている。その間、「宮」は飛鳥や近江にもおかれていた。もし、「宮」が天皇の住む、政治の中心地であるとすれば、外国との接触が利となる時、脅威となる時の宮のあり方は、白村江の敗戦のあと港から最も遠い近江に遷都されたように、国際情勢(安定と不安定)を如実に反映していると考えらる。と。 (一言:なるほど、学者さんはこんなふうに国や時代を分析するんですね。面白いです。)
(そして:いつの時代も権力者は、安全な所から、人、者、国を動かしているのですね。ですよね、安倍首相。) 古代摂津国(色付けされた地域)
(一言: bas**zara がコメントで、「阪神高速池田線といえば、大阪市をぬけて神埼川を渡って豊中にはいる時。150mくらいだけ兵庫県にはいりますね。」と教えて頂いた不思議な県境は、この時代の国境が、そのまま現在に繁栄されているのですね。)
以上をもって今回ご紹介する伝説のためのお膳立てが整いました。
【摂津国の九頭龍伝説】
九頭龍伝説は日本に幾つか伝わっていますが、今回ご紹介するのは、摂津国川辺郡(もしくは河辺郡)多田(現在の川西市多田)に伝わる出説です。
千年余り前、清和天皇の流れをくみ、源の姓を許され源満仲は、有る時大阪・住吉神社に願を掛け「矢を空に向けて射てみよ。そのとどまる所を住まいとすべし」とお告げを受けました。
満仲が白羽のかぶら矢を放つと、空高く五月山を越え、深山に囲まれた湖へ落ちました。 湖には、九つの首を持つ龍が住み、里に下りては作物を奪うなど村人を苦しめていました。 矢は龍の目に命中。満仲が次々と龍を切ると、龍は苦しみに暴れ、山を突き破り、湖水が流れ出ました。 やがて水が引くと、多くの田畑が現れました。 満仲は、この地に居城を築き、多田源氏を名乗り、摂津国に藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成したました。
また、満仲が矢の場所を問いながら訪ね来たことが「矢問」(やとう)の地名の由来になりました。 現在の東多田地区の住宅街の外れにある、ヒノキやスギに囲まれた九頭大明神には、龍の首が祭られ、目や鼻、口、耳など、首から上の病気に御利益があると伝えられているそうです。 |
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