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〜初詣:国城神社は近隣の在所が大和朝廷と深く係った証?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!初詣2016編
前ページでご紹介したように、国城神社への道のりは、車が乗り入れられ、舗装もされてもいますがその道幅は狭いものです。
千数百年年前に山頂に創建された神社とは本来そうしたものでしょう。
なにしろ2016年から千数百年年前と言えば、大和朝廷の時代なのですから。
それはそうなのですが、神社直下の駐車場には10台ぐらいは駐車できるでしょう。
ということで、この続編では、創建が千数百年前と言われるその由来を、神社前の説明板からご紹介します。
【国城神社の由来】(説明板の記述)
国城神社の由来は遠い昔いわゆる神代の頃に源を発するという伝説がある。
この地域の開発者(国主)の神が国城山の頂の大樹に姿を変えて現れておられるのを信じ神が鎮まる浄城として社を創建したのは大和時代(一千数百年前)である。
古来、一般の尊崇極めて厚く遠近の善男善女の進行の的として由緒深い神社である。
伝説によれば、坂上田村麻呂将軍が勅命によって奥州に出征したが戦況思うに任せず苦慮していたある夜「国城神社の山林に自生する竹を用いて矢竹とすれば大勝利を得る」と夢のお告げを受け当社に参拝二十日間のお籠(こも)りをして竹を頂き武器として勇躍出征 大勝利を得たという。
霊験のあらたかさに驚いて神託に感謝してお神楽(かぐら)を奉納したのが始りである。
以来今日まで連綿として奉納を続けているのは、この伝統との深いゆかりを秘めたものである。
国主の神を祭祀する意味から「国城神社」と呼ばれ 清水、西畑、南馬場の産土神(うぶがみ)として氏子との深い絆に結ばれ、今日に至っている。
この祭神は後世に天照大神を本社とし八幡大菩薩、春日大明神、愛宕大明神、そして荒神の勧請(かんじょう:神仏の来臨や神託を祈り願うこと)により五社をお祭りすることとなり神の最高の敬称である(明神)と崇められ、「国城五社大明神」となられたのである。
以上の記述は、今日再放送があったNHKの「出雲大社〜オオクニヌシの謎〜」と照らしてみるとその意味がより理解できます。
その番組によれば、日本書記に本文とは別に「一書」という付け加えられた伝説があるそうです。
要約すると、大和朝廷と出雲の豪族は倭国を二分する激しい戦いを繰り広げ、出雲側に多大な死者がでます。
その後敗れた出雲の国の神は朝廷に祟ります。
そこで朝廷にあだなす魂を沈めるために建てられたのが出雲大社だったのです。
そしてその事を神話にしたのが日本書記における国譲りの伝説なのです。
古事記では高天原から降臨した天照大神の使神が強引に国譲りを迫るのに対して、日本書記では交換条件による交渉によって国譲りを招致させます。
大国主は国を譲る代わりに「見えない国(夜の国)」と高天原の神々を束ねる地位を与えられたのです。そして大国主は天照大神の子孫を守護することを誓い、以後出雲の神々は朝廷の守護神となったのです。
坂上田村麻呂は平安時代(平城京)の奥州討伐で、朝廷の勢力拡大に大きく寄与した人物です。
当時の都平城京から東へ向かうには、大和街道ー熊野古道などを通って伊勢に至り、東方を目指しました。
その途中にある国城山は、朝廷を守護する祭神を祀るにはうってつけの位置にあったのでしょう。
国城神社の春祭 | 和歌山県文化情報アーカイブには現在に至るまで、天皇の祖:天照大神を祀る伊勢神宮との深い係りを示す記述があります。
その記述によれば、地元で、「春祭り」と呼ばれる国城神社(くにぎじんじゃ)の春祭りは、
国城(くにぎ)神社において毎年4月23日に行われ、数年前までは、伊勢・京都・大阪からの参拝者もいた。
参拝者は各人で弁当を持参し、餅まきが始まるまで話をしたりしながら神社で過ごすした。 昭和50年頃まで、社守り(しゃもり/神社を管理してくれる人)が近隣に住んでおり、春祭りを含め、国城神社の行事を代々取り仕切ってくれていた。現在は3地区(清水・南馬場・西畑)の区長及びそれぞれの地区から5名ずつの委員(国城委員)を選び、合計18名で準備する。 昭和30年くらいまで伊勢神楽がやってきた。「森神楽」と言い、着物・袴姿の6〜7人で構成されていた。 「森神楽」は、まず、厄払いをしに一軒一軒家々を回る。お供え(お金やお米など)を渡すと家の前でそれに見合った芸をしてくれるが、お供えが少ないと笛を一回“ピィッ”と吹いただけで行ってしまうこともあった。 各戸をひととおり回り終えたら、神社で出し物を披露する。境内にむしろを20枚程敷きつめ、その上で、見物客を笑わせてみたり、脅してみたりと1時間〜1時間半くらいの芸をする。(漫才のようであった) 参拝者はこれを楽しみにしていた。 「森神楽」もだんだんに後継者が少なくなり、昭和30年頃から国城神社には来なくなった。 (一言:私も清水の地に長年通っており、この森神楽は目撃しています。ですが今回初めてその意味を知りました。)
つまり大和時代の昔から、清水・南馬場・西畑の在所は大和朝廷と協力関係にあったということなのでしょう。それはひょっとすると、出雲国からやってきた民が住み着いた土地柄だったということなのかもしれません。 国城神社の由来が書かれた説明板
神社前の小屋からの眺望 1
神社前の小屋からの眺望 2
国城神社から下る石段
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