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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜ブラタモリ特番を見て:真田幸村の父 昌幸の凄み〜
        サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編  
  
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 いよいよわが町和歌山県橋本市学文路の隣町、九度山町ゆかりの戦国武将、真田幸村の生涯を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』が10日から放映されます。
当ブログでは、真田幸村を含む、その一族について長きに渡って記したことがあります。
昨年私自身も橋本市に引っ越ししたこともあり、このドラマへの思い入れは一入(ひとしお)で、清水の舞台から飛び降りたつもりで、このドラマのためにブルーレイレコーダーを購入しました。

前置きはさて置き、先日(1月2日)、『NHK大河ドラマ 真田丸』の放送を記念した特番として、「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 真田丸スペシャル」が放映されました。
今回はその放映内容から、列強ひしめく信州の小国にあって、戦国時代を生き抜いた真田幸村の父、昌幸の恐るべき知将の一面を記したいと思います。

そもそも真田の居城として有名な上田城ですが、番組の中で学芸員さんは、上田の地を真田が納めたのは天正11(1583)年〜元和8(1622)年のわずか39年間だと説明します。
一言:私は当時の39年をわずかだとは思いません。むすろ以外に長かったと思えます。人生50年と歌われた戦国時代にあって、武将たちは現代人とは比べものにならない極めて濃い、正に生死をかけた日々を駆け抜けたのですから。)

その短かった治世の理由は、真田が上田城において2度に渡って徳川を撃退したことは有名です。
それによって真田の強さに恐れをなした徳川は、関ケ原の観戦直後に上田城を徹底的に破壊したのです。
現在の真田城は、真田の後に入城した仙石氏によって江戸時代に再建されたものです。
そして、現在の上田城には真田の痕跡は基本的に残っていないそうです。
出演者の一言:堺雅人さんもタモリさんも『はーっ、つまんないっすね。』とガッカリ。)
ですがそこはNHKです。もしかしてこれは真田の痕跡ではないか?と思われる物を探すべく、番組は進行します。

真田の痕跡? その1 空堀
この後番組では真田が去ってから25年後の古い絵図を手に、上田城の空堀に焦点をあてます。
以下ににはその絵図を分かり易くした画像:上田城の絵図がありますので、ご覧ください。
問題の空堀は、絵図の右下側にあります。
入城するための橋の上から空堀(水のない堀)を見下ろした時、その向こうに見える石垣には空堀には不必要な排水口らしきものが有るのです。つまり真田がいた頃には、現在の空堀にも水があったと考えられるのです。
徳川によって壊された上田城ですが、空堀に排水口があるということは、それは真田の痕跡と見ることもできるのです。
そしてこれを外側から見ると、以下に紹介している上田城の石樋(いしとい)の画像に似た穴がみてとれる(実際の穴は、石樋が突き出ていない)のですが、そのものの画像はネット上ではみつかりませんでした。
一言今後上田城に行かれる方はぜひこの穴を撮影して下さい。)

真田の痕跡 その2 防御策として河岸段丘を利用
ブラタモリでは名物と言われるようになった地形に河岸段丘があります。
これはかつて河川の流れによって浸食された絶壁の地形を差します。以下の「元禄の信濃国絵図」から上田城周辺を拡大した図をご覧ください。
かつて千曲川は、上田城のすぐ南側をながれていたことがわかり、これによって城の南側に河岸段丘ができ、真田はこれを利用して築城し、南側の防御策としたのです。
当然千曲川がその河岸段丘の真横を流れていたことも、防御力をより完璧なものとしたのです。

真田の痕跡? その3 石垣が作られた年代の違い(安山岩と凝灰岩)と算木積み
次に着目したのは石垣が作られた年代の違いです。
石垣をよく見ると、凝灰岩安山岩が混在していることがわかります。そして、安山岩で積まれた部分が、より年代の古い頃に築かれたものだというのです。
更に、現在は平面部になっている石垣の中に算木積みという積み方の部分があることを発見します
算木積みというのは、石垣の中で崩れやすい部位となる角を長い石を石垣の角に以下の石垣の算木積の画像にあるように積むことで崩れにくくする積み方です。
その角を後から積み増しして面をひろげると、その部分は長い石の長面と単面だけが見えることになるのですが、そうした画像は検索では見つかりませんでした。
つまり、石垣の面の中の算木積みの部分は、より古い築造部分で、真田の痕跡の可能性が高いということです。
さらに、その算木積みの痕跡から、そこに比較的小さな台形状踊り場だったと思われる部位があり、その上部から現在の石垣の上部に向かって石段があったと思われる直線の隙間が石垣に見られます。
かつて石垣の脇には千曲川が流れていたのですから、そこは物資の運搬や敵襲などのときの脱出経路として船着き場があった痕跡の可能性があるのです。
出演者の一言:この城主だった昌幸のものらしい痕跡に幸村役を演じる堺雅人さんは、「凄いぞ、父上」と声を上げます。)
一言現地に行ったらぜひ探してみたいですね。)

真田の痕跡 その4 かつての堀の形状を利用したグランドと陸上トラック
ここでは以下の上田城の絵図上田城 城郭マップを見比べてみて見てください。
二つの画像を見比べると、現在の上田城の北側にあるグランドとと陸上トラックは、かつては堀だった場所で、その構造をそのまま両して建設されたということが一目瞭然です。
過去の遺構を跡形もなく崩すのではなく、こうした形で現代に再利用することは、過去の時代遺産を残す上で、有効な手段なのかもしれませんね。
出演者の一言:ここまで真田の痕跡に対してほとんど興味を示さなかった鶴瓶さんも、これには、
「うまいことしとんな。こんなん好きやねん。」と絶賛。続いてタモリさんは「真田考えてるね!」というと、鶴瓶さんは、「真田は考えてないやろ。」と突っ込みをいれます。この会話に女子アナは大うけです。)
この今ではグランドや陸上トラックとなっている大規模な堀が西側に設置されたのには深刻な理由があったのです。
そこで1585年 戦国武将の勢力図をご覧下さい。
現在もお堀の後に建造されたグランド(城の西側)から真近に見える虚空蔵山(こくぞうさん)には、上杉の山城があり、虎視眈々(こしたんたん)と真田の国を狙っていたのです。
ちなみに現在の陸上トラックの外縁にある石垣には、確かにここがかつて堀だったことを示す痕跡があります。それが、以下の画像にある上田城の石樋(いしとい)です。

真田の痕跡 その5 昌幸は上田の地質と地形の特性を熟知して利用した
番組に登場した長野県環境保全研究所の研究員さんのお話によると、上田城の築城にあたっては、上田の地質の成り立ちが重要だったといいます。
上田城がある辺りは、上田泥流層と呼ばれる地層が地上を覆っており、この地質が築城にはもってこいの正室をもっているのです。
上田城が築城されるずっと以前の2万数千年前には、この辺り一帯の上田盆地は、千曲川の河原(中洲?)だったのですが、千曲川上流の浅間山が突如大崩壊を起こします。
これにより、火山灰の細かい粒子や細かい岩くずなどがごちゃ混ぜに流れ出て、上田盆地を覆いつくしたと考えられています。それが上田泥流層なのです。
そしてこの上田泥流層の特徴は、水を通し難く、柔らかくて掘りやすい上に、垂直に層の表面が露出した壁であっても、崩れにくい性質をもっています。
つまり城の防御に欠かせない堀を造るのに、垂直な穴を掘り、そこに水をためるということが比較的簡単にできるのです。
更に、水を通しにくい上田泥流層は、山から流れ出た水をせき止め、湖や沼といった湿地帯を生みます。そしてその後、千曲川の流れに削られた崖(河岸段丘)でき、正に水に囲まれた天然の要塞ができます。
つまり、以下にある「元禄の信濃国絵図」から上田城周辺を拡大した図における矢手沢川(やでさわがわ)の辺りには、かつて沼や池などの湿地帯であったということです。
真田昌幸は築城に際し、そうした地形の特性を見抜いていたからこそ、この地を選んだのです。
出演者の一言:このことに痛く関心したタモリさんは「すごいマニア(地質の)ですね。」と語ります。)
以下に紹介している上田城の石垣の画像を見て下さい。
画像下部に見える遊歩道の部分には当時千曲川が流れ、その流れにさらされる崖には高い石垣を積んで保護していますが、その上には上田泥流層がむき出しの崖のままになっており、更にその上にはまた石垣が積まれた崖の最上部に上田城は築かれています。
 
それはつまり、川の流れにさらされる部分は補強しながら、その上には敵がよじ登りにくい泥流層の崖をあえて残し、城の重量を支える城直下の崖には再び石垣を積むという、ち密な計算のもとに、上田城は築かれているということでしょう。
 
真田の痕跡? その6 上田城の南にある矢手沢川は、真田が人工的に作った
まず以下にある現代の地図に元禄時代の様子を加えた地図をご覧ください。
その北側(上)にある細い川が矢手沢川(やでさわがわ)です。
昌幸はこれを城の北側に人工的に造り、その脇に町屋を隙間なく密集させた城下町を形成することで敵襲に備えたのです。
更に昌幸の町造りの凄さはこれにとどまらず、奇想天外な仕掛けを施します。
それが暗渠(あんきょ)を利用した防除です。
暗渠とは地下に設けられていて外からは見えない水溝 (すいこう)のことですが、ブラタモリでは採算登場する構造物です。
ですがこれは、土木技術が発達した現代では当たり前のものですが、昌幸が生きた当時としては画期的なものであったはずです。
ではこれをどのように防御に使ったのでしょう。
以下の上田城下町復元図をご覧いただくとその位置が示されていますが、
この暗渠(あんきょ)の上に道を通し、あえてその両脇にびっしりと町屋を建ち並べさせます。
するとそこを通る人からはその下が川だということが全くわかりません。
これによってもし敵がそのルートから攻めて来たとき、この暗渠(あんきょ)のある上の道をその周囲にある町屋ごと壊すことで、いきなり敵が侵入してくることを遮断するためのものであり、それが真田
が考案した仕掛けだったと考えられるのです。
出演者の一言:となるとこの仕掛けを発動した場合、そこに暮らす住民は家を失います。この事実に女子アナウンサーは、「えーっ、そんなのいやだーっ!」と声を上げました。)
一言そんな狡猾(こうかつ)な昌幸・幸村の親子に、一度ならずも二度三度戦いを挑んだ徳川の二代将軍秀忠は、ほんとうにおバカな若造ですよね。)
 
イメージ 5
上田城の石垣

イメージ 6
上田城の石樋(いしとい)

イメージ 7
石垣の算木積み

イメージ 2
上田城の絵図


イメージ 1
現代の地図に元禄時代の様子を加えた地図

イメージ 4
 
「元禄の信濃国絵図」から上田城周辺を拡大した図

イメージ 8
1585年 戦国武将の勢力図

イメージ 9
 
上田城下町復元図

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