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〜真田丸:小田原征伐での東山道軍に加わった北条一族あり、その名は氏勝〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
豊臣軍による北条征伐は、秀吉が3月27日に駿河国沼津に着陣すると、早速北条方の西の前線基地である3支城(山中城、足柄城、韮山城)の攻略を開始します。
まずは3月29日、
緒戦は城主北条氏勝の抵抗が激しく、豊臣勢は一柳直末が討ち死にするなどの苦戦を強いられたものの、秀吉が命じた総攻撃が始まると、城将、間宮康俊、松田康長らが討ちとられ、その日のうちに山中城は落城します。
豊臣軍の猛攻に敗れた北条氏勝は、落城を前に自害しようとしますが、朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って3人共に城を脱出。本拠である相模玉縄城へ戻り籠城します。
その後玉縄城は家康に包囲されるが戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により同年4月21日に降伏、秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れています。
以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力したとされます。
では氏勝と氏政の関係を家系図でごらんください。
後北条家系図
家系図から氏勝は氏政の父の妹(おば)の孫です。
氏勝が豊臣軍に降伏したのが天正18年(1590年)4月21日ですから、ドラマの中で真田昌幸、上杉景勝、真田信幸、直江兼続らが上野の松井田城で忍城攻めを話し合った4月20日の翌日ですね。
そして6月16日 に始まった忍城の戦いに参戦したのです。
北条氏勝 - Wikipediaの記述からすると、忍城の戦いにおいても氏勝は忍城の成田氏に対し、無血開城の説得をしたのでしょうが、成田氏はこれに応じなかったのでしょうね。
とすると、氏勝が忍城に駆け付けたのは真田丸:昌幸が鼻で笑った石田三成の忍城水責め失敗の真相は?〜で記した6月下旬の三成が城攻めに苦戦していると聞いて浅野長政、真田昌幸・信繁父子らと同時期だったのでしょうか?
恐らく三成が忍城を攻める以前に降伏させたという館林城の戦いから大谷吉継らと共に氏勝は三成に同行していたと思えます。
館林城が三成に降伏したのは、氏勝の呼び掛けがあったからなのかもしれません。
とことで、三成の攻撃によって降伏したという館林城の戦いには、異なる話がネット上にあります。
「天正十八年(1590)石田三成率いる豊臣軍に攻められ、大袋山の木を切って沼に投げ込み、二箇所の道を作ったが、翌朝には道は沈んでおり、強攻策は避け、降伏を勧めて開城したという。」と記されていますが、
館林城では、
「天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条攻めに際して、石田三成率いる2万の豊臣勢が館林城を攻撃したが、館林城は微動だにしなかった。このため、三成は城の中心に突入するため城沼に筏を投げ込んで二筋の攻撃路を造ったが、不思議なことに、夜が明けると二筋の道は沼の中に没し、跡形もなく消え失せていた。三成は神がかりな館林城をこれ以上武力で攻めることを断念し、北条氏直を通じて降伏を勧めさせ、ようやく館林城は開城となったという。」と記されています。
ですがたぶんページの性質から察するに、恐らく後者のお話には信ぴょう性がないように思われます。
以後北条氏勝は、家康に家臣として仕えるようになり、下総岩富1万石の領主となった。その後領内の基盤整備を進める一方で、関ヶ原の戦いなどで功績を重ね、徳川秀忠からの信頼も厚かった。慶長16年(1611年)死去、享年53。家督は養子の氏重が継いだ。一説には弟の繁広を嫌った重臣・堀内某が家康の外甥にあたる氏重を養子に迎えたとも伝わる(『寛政重修諸家譜』)。
北条氏の城
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