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〜真田丸:棄の死で豊臣は初代で終わると家康や昌幸は予感して〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第25回放送『別離』では、家康と昌幸は共に、今や風前の灯火となっていた棄(すて:鶴丸君)が病死すれば、豊臣政権は秀吉一代で終るのでは?と、再び下剋上の乱世の到来を予感しますが、二人が偶然鉢合わせすると、表面上は「鶴松様の病が良くなれば良いですな。」「いやきっと良くなられます。」と白々しい挨拶を交わします。
昌幸は真田家の内々の話の中で、「秀吉は今年で幾つじゃ?」と訪ねると、信繁は「確か55になられたと・・・・」と答え、それに対して「もう子は出来まい。」とつぶやきます。
この昌幸のセリフに対し、男性の視聴者は、「いや妻さえ若ければバリバリだろう。」と思ったでしょう。
ですが人生50年と言われた当時の常識では、もうダメなんですね。
多くの側室らと交わったにもかかわらず、そこまで子供が出来なかった秀吉だけになおさら。
一方徳川家康と本多正信の会話では、家康が「鶴松の死がどれほどの意味を持つか分かるか?跡継ぎがいることで、これからも豊臣の世が続くと思っていた。」と語ると、昌幸の側では「鶴松の死で流れが変わった。」と語り、また家康サイドでは家康が「見方によっては、鶴松が生まれる前に戻ったとも言える。しかし、本当にそうか?秀吉は年々老いている。」と語り、家康サイドと昌幸サイドで秀次は秀吉ほど難敵ではないことを語り、二人の話が別々の部屋で無関係に語られているのに、ピッタリとリンクするように描かれました。
はたして家康や昌幸は、秀吉の老い先を語れるほどに若かったのでしょうか?
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三成の呼び掛けで秀次三兄弟と宇喜多秀家、秀俊(後の小早川秀秋)が収集されていましたが五人も秀吉の後継者がいたにもかかわらず、豊臣政権を支える屋台骨が居なくなってしまったのでしょうか?
2016/7/2(土) 午後 2:21 [ ヨシヒロ ]
> ヨシヒロさん
ウィキペディアなどの記述などによれば、秀次の切腹と共に秀次に連なる一族郎党がことごとく連座して処刑されたことにより、ただでさえ少ない一族が更にその数を極端に減らしたことが、豊臣政権の力を削ぐ結果となったようなことが書かれていましたよ。確か、
2016/7/2(土) 午後 4:44 [ 上から目線 ]
上から目線さん。
情報提供ありがとうございます。
二人の弟達と秀秋も早死にし、残る宇喜多秀家も流罪になりましたから関白職につく人が誰も居なくなってしまったのが豊臣政権崩壊の原因でしょうね…
関ヶ原で西軍が勝っていたら関白には毛利輝元がなっていたかもしれません。
2016/7/2(土) 午後 5:06 [ ヨシヒロ ]
> ヨシヒロさん
秀吉が亡くなる前に、五大老として遺児の豊臣秀頼の補佐を託されたのが毛利輝元ですから、彼が秀頼をも上回る諸侯からの支持と、図抜けた知力がなければ、無いとおもうのですが、第一、淀殿、北政所、三成などがそれ(豊臣の一族以外が関白になること)を許すとは思えませんが・・・・。
2016/7/2(土) 午後 6:24 [ 上から目線 ]
上から目線さん。
豊臣秀頼が元服するまで毛利輝元が関白職につき元服したら、早急に関白職を譲ったのでは?
そしたら、宇喜多秀家や結城秀康などが補佐役に回っていたでしょう。
丁度、池田輝政や山内一豊が豊臣秀次の補佐をしたように…
2016/7/2(土) 午後 7:10 [ ヨシヒロ ]
> ヨシヒロさん
ヨシヒロさんに納得して頂けるよう答えるため、長くなったコメントを分割したことをあらかじめご了承下さい。
秀頼の官位は、秀吉の死後もその後も、摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進を遂げ、毎年の年頭には平公家が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けており、慶長10年(1605年)には右大臣に昇進します。
しかし当時の武将の中で最高官位は、慶長8年(1603年)に鎌倉幕府や室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得していた家康で、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、独自の政権構築を始めていました。
そのため秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しませんでしたが、家康は、六男の松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させてたたことで、官位をおとしめ、慶長12年に秀頼は右大臣を辞しています。
2016/7/2(土) 午後 8:40 [ 上から目線 ]
> ヨシヒロさん
続きです。
つまり朝廷は秀吉亡き後の最高権力者が誰なのかを天秤にかけ、秀頼ではなく家康としたのです。
従って秀頼の補佐役でしかない毛利輝元の最高は従三位中納言でした。
例えば秀吉より先に亡くなった秀長の最高位は従二位権大納言ですし、切腹前に関白となっていた秀次の官位は、従四位下右近衛権少将→右近衛権中将→参議→従三位→従二位権中納言→正二位権大納言→内大臣→関白→左大臣と細かな段階を経て関白となっています。
2016/7/2(土) 午後 8:42 [ 上から目線 ]
> ヨシヒロさん
更に続きです。
従って毛利輝元は、まだ従二位権中納言→正二位権大納言→内大臣というような段階を経なければ関白にはなれません。
豊臣家において秀吉の死後、官位授与の許諾を与えていたのは秀次ですので、秀次が抹消されれば、その代行を務めるのは恐らく秀吉時代と秀次時代に朝廷とのパイプ役を担っていた北政所が官位授与の受諾をするか、秀頼が成長するまでは家臣の官位授与を凍結すると思われます。
従ってその意味でも毛利輝元が関白になることはないかと。
西軍が勝てば、家康と並ぶような関白の官位を得ることがはたしてできたでしょうか?
西軍が勝てば当然秀頼は少なくとも右大臣の官位を取り戻すでしょう。
その上はと言うと、関白太政大臣か征夷大将軍、更には家康が死後神格化した東照神君、つまり神です。
ちなみに関白太政大臣と征夷大将軍とではどちらが上とは一概には言えないそうです。
従って仮にも幼少とは言えいずれ主君となる秀頼より上の官位である関白に毛利輝元がなることは、ある意味逆臣ではないでしょうか。
2016/7/2(土) 午後 8:42 [ 上から目線 ]
上から目線さん。
詳しい投稿、ありがとうございます。
僕より詳しいみたいなので感心します。大河ドラマで関白は毛利輝元になる何て台詞があったのでひょっとして…と思いましたが…やはり、あくまでドラマでの話ですか…
官位授与を凍結となると宇喜多秀家や結城秀康も関白候補から外れ、上杉景勝や毛利輝元と共に豊臣政権を支えていたのでは…と考えますがどう何でしょうか? byヨシヒロ
2016/7/2(土) 午後 9:05 [ pap***** ]
> ヨシヒロさん
更に更に続きです。
毛利輝元の率いる西軍が家康方(東軍)に勝ち、輝元が一時でも関白になるということは、すなわち西軍内に敵である征夷大将軍;家康の再来として関白:毛利輝元が現れるのも同じと思われます。
秀次が秀吉の公認を得て関白となったのとは意味が変わってくるように思われます。
2016/7/2(土) 午後 9:12 [ 上から目線 ]
> pap*****さん
大河ドラマで関白は毛利輝元になる何て台詞があったのですか、しりませんでした。
それこそ理屈に合わない話とは思いますが、今後のドラマ進展を見守りましょう。お互いに
何しろ三谷さんの脚本には常識外れの展開が多々ありますからね。
2016/7/2(土) 午後 9:15 [ 上から目線 ]
その通りですね!
今後の動きを見て行こうと思います。
関ヶ原で西軍が勝てば大阪が首都になっていた何ていうレビューがありましたが実際にそうなっていたら豊臣政権は?そして、日本史にどんな影響を受けていたのでしょうか?
byヨシヒロ
2016/7/2(土) 午後 9:24 [ pap***** ]
> pap*****さん
私は実際の家康を知らないのに(当然ですが)正直言って知りうる家康の情報から家康が好きではありません、だからと言って秀吉が好きかと言えばそれも否定します。
そのことが私自身の判断に影響しているかどうかは第三者の目で見て頂く他はないのですが、いつぞやのコメントにも記したように、いずれにしろ史実にあるような徳川政権のようには長続きするとは思えません。
で、ヨシヒロさんとのやり取りで遅延していますが、出来れば今日中に、『〜真田丸:秀頼の誕生後も秀長が生きていればひょっとして豊臣は〜』と題してページを更新したいと思っています。そこで豊臣政権の長期化があるか?とかその運営については振れるかもしれません。徳川を打倒して豊臣政権が続く場合の日本史への影響なんて壮大な空想は、想像すらできません。
しかし、これだけは言えるかもしれません。
現在のアンチ東京とも言える思いとしての大阪人根性は、存在しなくなるでしょう。それは今の大阪人から見れば、大坂人ではありません。逆に東京人がそうした思いを持つか?と言えば、それも疑問です。
2016/7/2(土) 午後 9:46 [ 上から目線 ]
上から目線さん。
また、新しい投稿をお待ちしています。豊臣政権は江戸幕府みたいな長期政権にはならなかったみたいですが江戸幕府が長期政権になったのは長子存続制にしたのと上からさんの指摘通り大名達が保守化したのもあるみたいですね!
byヨシヒロ
2016/7/2(土) 午後 10:07 [ pap***** ]