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〜真田丸:おさらい。豊臣秀次が暴君でもおバカでもなかったという根拠〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第28回放送『受難』では、京の聚楽第より豊臣秀次が突如姿をくらまし、最後の別れを惜しむつもりだったのでしょうか、大坂城にいるきりに会いに行きます。
これにより秀次の所在は信繁の知るところとなります。恐らくきりが知らせたのでしょう。
そんな時、どのようにして父の所在を知ったのでしょうか、たか が信繁の前に現れ、「これを父にお渡し下さい。」と、キリストやマリア様が描かれた絵札を手渡します。
その後信繁は真田の家族や大谷刑部(大谷吉継)などに相談し、結局信繁は京の真田屋敷にかくままった上で秀吉に秀次を許してもらえるよう願い出ます。
高野山へと向かい、現在の金剛峰寺柳の間にて自刃してしまいますが、このことに激怒した秀吉は、秀次の縁者は女、子供に至るまでことごとく処刑してしまいます。
ところが、秀次の娘:たかは、聚楽第の隠し部屋に潜み難を逃れます。
第28回放送『受難』では、信繁の進言もあって秀吉は秀次を殺そうとまでは考えず、時が来れば許すつもりであったという設定になっていましたが、実際は秀吉によって秀次は自刃させられたようです。
では秀次はなぜ自刃しなければならなかったのでしょう?
以前にも記しましたが、秀次は決して無能でも暴君でもなかったようなのですが、
更に悪いことに、秀次の悪評は海外でも広まっていたようです。
1669年にオランダの牧師アーノルド・モンタヌスがイエズス会の厖大な書翰や記録に基づき、アムステルダムで刊行した『モンタヌス日本誌』には、秀次についての記述として、
『彼の最大の娯楽は人の屠殺場に於て人を殺すことなり。彼は此屠殺場を宮殿付近の或地域に於て開きたる中庭の中央に作り、壁を以て囲み、白砂を敷き、一脚の卓子を置けり。(中略)如何なる虐政者の行ひたる処刑といふとも、彼の所為に過ぎたるは無し。以て残忍な屠殺者の王と称すべし。』
と書かれており、同書は独・仏・英語に翻訳され十七世紀のヨーロッパにおいて広く読まれていたのです。
そんな悪い奴だから秀次は自刃させられたということになるのでしょうが、『モンタヌス日本誌』が刊行された当時は、日本国内でのキリスト教布教が弾圧され、海外との国交が制限されていた時期でもあり、記述内容が正しくないとの指摘もあります。
反対に秀次が暴君ではなかったとする記録もあります。
第十九章
『この若者(孫七郎殿)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。』 第三十八章
『老関白(秀吉)の甥である新関白(秀次)は、弱年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識ある賢明な人物と会談することを好んだ。 彼は(老関白から)、多大な妄想と空中の楼閣(とも言える、上記のような内容の)書状を受理したが、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。 彼は幾つか皮肉を交えた言葉を口外したものの、伯父(老関白)との折り合いを保つために、胸襟を開くこともなく自制していた。』 と記されているそうです。 また、殺生関白という悪名を後世に残した『太閤記』成立以前に同ルイス・フロイスが母国のイエズス会総長クラウディオ・アクアディーヴァに書き送った報告の中で秀次公は、
『優れた才能を有し、気前のよい人で多くの資質を備え、機敏、怜悧、かつ稀に見る賢明さの持ち主であり、特に親切で、その他にも多くの優れた徳を備えていた。(中略)殿にとっては、人間の血を流すことは何でもないことで、人間を虐殺するにあたっても(その手段は)非常に戦慄的であった。(中略)私が若い頃に読んだ歴史上の人物でも、またこれらの皇帝でも、関白殿がなしたように自ら手を下した人間の血で地面を汚し、このような悪業をひどく愛好するとか、またこのような不評の業を誇らしく思った人はいなかった。』 と記されています。
この記述が間違いの無いものならば、秀次は秀吉によって自刃させられた。という事になるのです。
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堀野さん、お久しぶりです😊
真田丸、好調ですね!
信州で生まれ育った者としてはうれしいです。
この夏は暑そうです。気をつけてお過ごし下さい。
同年代のものとして応援しています🐱
2016/7/19(火) 午前 10:45 [ 湖池健彦 Essay ]
> 湖池健彦 aromaさん
返事が遅れました。
いつも応援して頂き、ありがとうございます。
2016/7/26(火) 午前 10:11 [ 上から目線 ]