|
〜真田丸:秀次やその娘たかがキリシタンのように描かれた意味とは〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回のページで記したように『NHK大河ドラマ 真田丸』第28回放送『受難』では、秀次の娘:たか が信繁の前に現れ、失踪中の父に「これをお渡し下さい。」と、キリストやマリア様が描かれた絵札を手渡し、その後秀次は自刃し、その縁者は女、子供に至るまでことごとく処刑してしまいます。
ところが、秀次の娘:たかは、聚楽第の隠し部屋に潜み難を逃れます。そしてその隠し部屋には赤い十字架が掛けられた祈りの部屋のようでした。
さてここで疑問です。上記のように、第28回放送『受難』では、秀次もしくはその娘たかが、まるでキリシタンであるかのような描写がなされました。
秀次や娘:たかはキリスト教徒だったのでしょうか?
「秀次公が天正十三年(1585年)に築城を始めた八幡山城の城下町には相当数のキリシタンがおり、また、秀次公は彼らを保護していた形跡があります。
キリシタン大名として有名な高山右近とも親交があり、「台子七人衆」として茶の湯を通じても交流が有りました。『キリスト教に改宗した』という史料は発見されていませんが『好意を示していた』のは間違いないようです。 」という記述があります。 ここでキーワードとなるのは「八幡山城」と「高山右近」です。
これらのワード+αでヒットしたページのカトリック高槻教会 - 高山右近の記述です。
高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。
「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。
ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。
右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。
1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失、右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力した。
信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めた。
1585年、右近は明石6万石に転封、明石教会を建設しました。
しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ったが、右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。
以上のカトリック高槻教会 - 高山右近での記述からわかることは、1573年〜1585年にはキリシタン大名として有名な高山右近が治めた高槻には多くのキリシタンが存在し、1585年に右近が明石6万石に転封されて後も多くのキリシタンの領民が存続したということです。
八幡山城 - Wikipediaによれば、
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
・・・・豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
つまり、以上の資料から、秀次はキリシタンの領民が多く存在する近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)の領主として1585年〜1590年の間、領主となり、キリシタンたちとも親交を持っていたということです。
秀次やその娘:たか(=信繁の側室:隆清院)は後に寺院を頼って生涯を終えますのでキリシタンである可能性は少ないのですが、たかやその母:一の台(公家の娘)がキリスト教に日常的に接していた可能性はあります。
|
全体表示
[ リスト ]







