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〜真田丸:、淀殿は枯木になった秀吉に散り花を咲かせようと、花咲か爺を・・・〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今日の『NHK大河ドラマ 真田丸』第30回放送『黄昏』では、秀吉が淀殿から二人の子:秀頼が花咲か爺が見たいと言っていると言われて秀吉が、満開の桜の樹に登ろうとしたとき、淀殿以外は皆、無茶な事として止めようとしたにもかかわらず、ハシゴを使って登り、転落する場面がえがかれました。
これはもう誰が見ても淀殿の策略としか見えないと思います。
何が言いたいか、お分かりですよね。
つまり淀殿は、老いた秀吉を策略をもって葬ろうとしたのでは?と言いたいわけです。
なぜならこの出来事があった醍醐の花見以前、秀吉は自身に終末の時が迫っていることを悟り、淀殿と秀吉の間にできた子とされる拾がわずか5歳であるにもかかわらず、成人となる儀式である元服をさせて、名を豊臣秀頼とします。
これにより秀頼は、形の上では成人したのですから、秀吉が亡くなることがあれば、当然秀頼が豊臣家の当主となるわけです。
しかし実際は、秀頼自身が武家の頂点に立っていた豊臣家の当主としての役目を果たすには幼な過ぎます。
結果その生母である淀殿が秀頼に代わって豊臣家の全権を握ることになります。
このことをもって淀殿は、もはや秀吉の存在は不必要となったのです。
で、何をしたか?
秀吉に一刻も早く豊臣家の頂点の座を明け渡してもらうために、、花咲か爺の真似をさせて不慮の事故のように装って秀吉の寿命を縮めようと図ったのです。
もちろんこれは『NHK大河ドラマ 真田丸』で描かれた場面を見る限りでのお話ですが。
以下は史実における秀頼の元服と醍醐の花見の行われた年です。
(ちなみに:ドラマでは、字幕は豊臣秀頼としていましたが、秀吉は、羽柴藤吉郎豊臣朝臣秀頼(はしばとうきちろうとよとみのあそんひでより)と言っていましたね。)
醍醐の花見(だいごのはなみ)とは、慶長3年3月15日(1598年 4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺 三宝院裏の山麓において催した花見の宴。
とまあドラマの設定と、順番的には合っていますね。
元服前の秀頼と秀吉
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