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〜真田丸:イスパニア船のサン=フェリペ号の漂着で秀吉は全ての積荷を強奪〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今日の『NHK大河ドラマ 真田丸』第30回放送『黄昏』ではイスパニアの船の漂着とキリシタン弾圧のことが描かれました。
大航海時代後半、競争が激化する中で、速度と戦闘力が重要となった時代に登場した速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適した帆船の一種であるガレオン船:サン=フェリペ号が、文禄5年(1596年)に漂着、その乗組員の発言が大問題となり、豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなります。
しかしそんな時、サン=フェリペ号事件が起こります。
同船には船長ほかに、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われ、甚大な被害を受けた。船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を放棄してまでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望でした。
幸いにも禄8月28日(同年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着しますが、知らせを聞いた長宗我部元親は、秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告し、船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまいます。大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれます。
サン=フェリペ号のメンバーは、船の修繕許可と身柄の保全を求める複数の使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機します。
しかし使者は秀吉に会うことを許されず、使者の1人ファン・ポーブレが船員たちのもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があるという知らせが届き、先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」との通告とは逆の対応に驚愕のます。
そして奉行の1人増田長盛が浦戸に派遣されることになります。
増田らは、同伴の黒人男女にいたるまで船員全員の名簿を作成し、積荷の一覧を作ってすべてに太閤の印を押した。船員たちは町内に幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。
さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。
このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。
しかし増田らの一行はその航海長の言葉に怯むことも無く積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。
荷物の没収に抵抗しようとした船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の航海長が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げたとされているが、この逸話は徳富蘇峰が大正〜戦前の昭和年間に記した近世日本国民史が初出である。 現在に至るまで実際にそのようなやりとりがあったという当時の史料は日本側の記録には見当たらない。
(一言:上記のウィキペディアの記述では「「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり。」という意味のことを告げたとされる記録は当時の日本側の史料には見当たらないとしていますが、史料にはなくとも、秀吉の行いに激怒したサン・フェリペ号の船長の言葉が秀吉の部下にそのように聞こえたとしても不思議はありません。仮にスペイン側が「征服した国に対しては、単なる属国として征服するのではなく、キリスト教を布教することで心の救いをもって本国と同化し、更なる発展を目指す。」といった趣旨を述べたとしても、秀吉側は本末を転倒して、「その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり。」と理解したのだと思えます。それは通訳が至らなかったのか?それとも異教徒を色眼鏡でみていたからのか?はわかりませんが。)
サン=フェリペ号の模型
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