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〜真田丸:秀吉唯一のキリシタン弾圧(日本二十六聖人殉教)のきっかけとは?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
ドラマでは、秀吉が船の荷を搾取するための行為の証拠隠滅を図るために、サン=フェリペ号の乗組員とキリシタンの虐殺にまで至ったように描かれましたが、史実はそうではありません。
秀吉の使者:増田長盛が世界地図に示された欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の船長が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げたことが大問題となり、このことをもって秀吉はのキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)という凶行に至ります。
ではなぜ秀吉はサン=フェリペ号事件から日本二十六聖人殉教の凶行へと至ったのでしょう?
それは単にキリスト教の日本での普及が国を危うくすることに思い至ったという理由だけなのでしょうか?
確かに信仰心の力が時の支配者にとって脅威となりうることについて秀吉は、骨身に染みて知っていたことは確かです。
例えば秀吉がまだ織田信長の家臣だった時、織田軍は一向宗や仏教徒が武装化した集団と幾度となく激突し、悪名高い比叡山の焼き討ちにも秀吉はかかわっています。
強固な信仰心を持つ敵は手ごわい。そのことが日本二十六聖人殉教に繋がったとしても違和感はないかもしれません。
ですが秀吉がサン=フェリペ号事件で激怒した一番のポイントはそこではないと私は思います。
じゃあどのポイントか?と言うと、
それは、航海長であったデ・オランディアが憤って長盛に世界地図を示し、「スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。」と言った。この1点に絞られれると思います。
なぜなら、秀吉は、百姓の子とされる一兵卒以前の存在から一生を掛けて日本国の天下人に上り詰め、当然その偉業に自らも誇りと自負を持っていたことは疑う余地がありません。
天下統一の偉業を成し遂げた秀吉にしても、その道のりは長く険しく、日本はとてつもなく広大な大地だという実感があったはずです。
にもかかわらずデ・オランディアは、、「スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。」のです。
その言葉は秀吉にとって「小っちゃな国の小っちゃな国主の秀吉ごときが、世界の大国:スペインの選ばれし民である我々を、かくも非道に扱うとは愚かものめ!」と言われたに等しいことだったと思えます。
既に最晩年にあって、支配した日本国全てを我子:秀頼に誇りを持って引き継がせようとしていた秀吉は、デ・オランディアの言葉に激怒します。
仮に七名の司祭が口々に日本国での不当な仕打ちに抗議し、秀吉側にその愚行に対して神に背く行為だと語ったとしたら、そしてそのことが秀吉に伝わったなら、秀吉がキリシタン弾圧を強行したとしても、不思議ではありません。
以下は日本二十六聖人 - Wikipediaの記述です。
1596年10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は12月8日に再び禁教令を公布した。また、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた。ちなみに、二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達であった。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。
24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。
また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。
厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断った。
ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された(一行は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだという)。処刑当日の2月5日、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも関わらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語った。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは午前10時頃であった。
処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。
日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。1962年には、列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた。カトリック教会における「日本二十六聖人殉教者」の祝日は2月5日である。
26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。
そして二十六聖人記念碑の右側から順に列挙された最初の殉教者こそが、『NHK大河ドラマ 真田丸』第30回放送『黄昏』でもクローズアップされて描かれたフランシスコ吉(きち)です。
日本二十六聖人のみに止まらず、秀吉は生涯を通して余りに多くの罪なき人々を死に追いやりました。
このことのみをもってしても、豊臣家は滅ぶべくして滅んだと言わさるを得ませんね。
【二十六聖人の氏名】
細川屋敷で祈るガラシャ他のキリシタン
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フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)
2017/3/19(日) 午後 3:15 [ 心は丸く 気は長く ]
欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、
サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げた
2018/2/12(月) 午前 11:12 [ マレーシアにまた行きたいな ]
マレーシアに行きたいな さん
私は人格を高めるための、もしくは過酷な現実を受け流すための宗教心が、強固な信仰心を生み、往々にして個人を不幸へと追いやるに至ることが怖いと思います。
その極端な例が十字軍・一向一揆・中東戦争・自爆テロ・オウム真理教事件などですよね。
2018/4/21(土) 午後 7:51 [ 上から目線 ]