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〜真田丸:政宗や家康の抑えと監視役の会津国替えはなぜ景勝だったのか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今日の『NHK大河ドラマ 真田丸』第30回放送『黄昏』では1598年正月、唐突に秀吉が何の落ち度もない上杉景勝に対して「会津に移ってくれ。」と切り出し、
「わしが死んだ後、もし徳川がよからぬ動きをした時は、背後から関東に攻め込め。」と言い渡しました。
つまり秀吉は家康に対しては常に頼りにしていると語りながら、実際は自らがこの世を去った後には、徳川が豊臣の脅威となることを予見し、上杉家に対して表向きは奥州の伊達政宗の抑えとしての役割に見せかけ、実は徳川を北から監視する役目をおびた国替えとして描かれたのです。
果たしてこのようなドラマ上の設定は史実と合致するのでしょうか?
史実と合致するのなら、会津への国替えはなぜ上議景勝でなければならなかったのでしょうか?
上杉景勝 - Wikipediaによれば、
文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた同じ年、
しかし、表向きは秀吉に対していち早く臣従を誓って武功を上げた家康を粗雑に扱うことは、豊臣家に対する不信を招き、既に大きな力を持っていた家康に賛同する諸侯が現れ、豊臣に仇名す恐れがあると考えた秀吉は、関東管領の位置付けとして、上杉ではなく徳川を関東に移封することとします。
上杉家に旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と出羽庄内地方のみで、後は伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が征服した会津地方でした。
つまり上杉景勝は、会津に国替えさせられたことで、結果的に伊達家をはじめとする会津の北側に位置する大名を抑えると共に、徳川家の動きも秀吉の命に従い、監視せざるを得ない状況になったのです。
上杉景勝以前に会津を守護していたのは蒲生氏郷で、伊達家や徳川家をよく抑え込んでいました。
しかし、蒲生氏郷は、文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、享年40で病死します。
『会津四家合考』には、秀吉は初め細川忠興に与えようとしたが、忠興は奥州の要である会津を守護する自信がないといって辞退し、蒲生氏郷もまた同様の理由で辞退したが、秀吉の気色を損ねてはと思い、「自分は武功の家臣を多く持っていないので、もしもの場合にこの要地を警固することには自信がない。今天下には主人の勘当をうけて浪人となっているの剛勇の者は数多くみられる。これらの面々の勘当を解くよう仰せられ、自分に召し抱えを許されるならば、会津を充分に守護しよう。それなくしては拝領のことは辞退するのほかはない」と言います。
会津92万石に移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わるほどに秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れていたと伝えられます。 だからこそ氏郷は会津の地にあって伊達や徳川を抑えることができたと言えます。 しかし、蒲生氏郷の死により家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行(13歳)が、年少者が「陸奥の要」会津を統治するのは難しく、家内不穏の動きが出たため、12万石に減封されて宇都宮に国替えとなります。
そこで蒲生氏郷に匹敵しうる力を持った上杉景勝がその後任として会津へ国替えとなったのです。
ここに至って家康亡き後、最も豊臣家の脅威となり得る力と野心を持つ存在は、徳川家康と伊達政宗だったのです。
会津の地は、伊達政宗の抑えと、徳川家康の監視だけではなく、この二つの巨大勢力の同盟に水を差す位置にあります。
そして上杉謙信の意志を継ぐ景勝は、腹に一物もつ野心家の家康や政宗と内通する可能性はほぼありません。なぜなら景勝は、天下を望む者ではないのですから。
ただし、秀吉に政宗と家康の抑えと監視の役として見込まれて越後から会津へと国替えを余儀なくされた上杉景勝にしてみれば、極めて迷惑な話だったことは言うまでもありません。
いずれにせよ、秀吉の命令を景勝は、ドラマと同様にいったんは辞退したようです。
しかし『会津陣物語』には 「固辞した景勝が『越後は鎌倉公方・足利基氏*から先祖・上杉憲顕が賜ってから、200年以上、数代に及ぶ旧領です。国替えはお許しください』というと、秀吉公は『奥州は大国で、一揆もしばしば起こる。その方(景勝)の武力でなければ、治めることは難しい』と語り、加増した」(意訳)
という話が載せられているそうです。
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