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〜真田丸:大谷吉継は政権の中枢から外れた頃、秀吉の行いと病に苦しみ〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今回は真田信繁の舅となった大谷吉継について記します。
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第30回放送『黄昏』、第31回放送『終焉』で描かれた頃の文禄3年(1594年)から慶長2年(1597年)ごろまでの大谷吉継は豊臣政権の中枢から外れていました。
〜真田丸:大谷吉継は、石田三成に代わって利休の祟りを受け・・・・〜でご紹介したように、吉継は当時の仏教観でせんじょうの罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(業病=ハンセン病)を患っていたと考えられ、晩年にはその病状による形相を隠すために頭巾を被った姿が今日に定着しています。
しかし吉継の実像は、その病の原因を持つような卑しい存在ではなく、戦乱の世にあってひたすら大局に立って物事を見ていた人物だったようです。
大谷吉継の両親についてはその家系は良く分かっていません。
父:谷吉房は浅井氏の家臣で、浅井滅亡後は織田氏、ないしは木下秀吉に仕えたとされ、吉継の母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所=寧)に一人住みの部屋を与えられた地位の高い女官である女房の東殿とされ、高台院(北政所=寧)の、取次役であったとされます。
文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などでも手腕を発揮し、同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として朝鮮へと渡海し、石田・増田らと共に秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏め、明との和平交渉でも、明使を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たします。
その後、再度朝鮮へ渡海しますが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略した時点で戦局は停滞し、和平交渉に入りが最終的に決和平に和平は決裂、吉継は文禄2年に朝鮮からの帰還します。
その後文禄3年(1594年)から慶長2年(1597年)ごろまで持病の悪化により吉継は豊臣政権の中枢から外れていました。
なぜでしょう?
これは一般的には持病の悪化とされているようですが、それだけではないと思える事実があります。
ご存じかもしれませんが、大谷吉継は天正13年には、キリスト教に改宗していたとされます。
この間の吉継は、第30回放送『黄昏』、第31回放送『終焉』で描かれたように三成らの相談を受けて陰から豊臣政権を支えていたのでしょうか?
吉継は当初の文禄3年から数年には朝鮮半島での疲れもあっってか、政権の中枢から外れます。
この頃の吉継は、晩年を迎えた秀吉が行った惨忍な行いに反感をいだいて世の動向を見極めるためもあって休養期間をもったのではないでしょうか?
文禄5年にサン=フェリペ号事件 が発生し、これを機に〜真田丸:秀吉唯一のキリシタン弾圧(日本二十六聖人殉教)のきっかけとは?〜で触れた苛烈なキリシタン弾圧が始まり、世に言う日本二十六聖人殉教へとつながります。
豊臣秀吉の厳しいバテレン追放令の下、逮捕された24人のキリシタンは慶長2(1597)年1月、京都・一条戻り橋で全員、左耳を切り落とされると、血に染まった傷口を覆う間もなく、市中を引き回された。そこで秀吉から下った処刑の命。しかも、850キロ先の長崎の刑場まで1カ月にわたっ長く過酷なて死への旅路でした。
少し詳しくご紹介しましょう。
1月3日、一条戻り橋で左耳を切り落とされた24人は牛のひく荷車に3人一組となって乗り込みます。
時刻は午後10時を過ぎ、周囲は真っ暗にもかかわらず、珍しい外国人を含む引き回しということで、沿道は多くの人ざかりだったといいます。
翌日、大坂と堺でも同様に引き回されるため小川牢屋敷を出発し、東寺口から京都を出たおりには、一行の一人:フランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタが、刑の対象から外れた信者に血まみれの十字架を手渡して別れを惜しむ姿もありました。
京都、大坂だけでなく堺が選ばれたのは、当時、南蛮貿易で栄え、多くの外国人やキリシタンが集まっていたためとされています。
そして1月8日、24人は長崎・西坂の刑場での処刑命令を宣告されます。
しかもその道中は、多くののキリシタンの見せしめのため、「歩いて行け」というものでした。
堺での引き回しの後に大坂に戻ったのは9日。その翌日に長崎に向けて大坂を出発すると山陽道を通って13日に播磨に入り、14日には明石、15日には姫路へ進んでいますが、途中の西宮では、カトリック宣教師のオルガンチノから24人の道中の世話をまかされた京都のペトロ助四郎とフランシスコ吉ら2人が続けざまに受刑者の列に加えられるよう願い出ます。
吉は京都のフランシスコ修道院近くに住み、事件後も磔刑(たっけい)を志願していたらしいが、加わることができなかったので、川沿いの茶店で休息する一行の中に飛び込むと、バプチスタの足に泣いてすがりつき、列に加わったという話も残ります。
26人となった受刑者は19日に現在の岡山市から三原へと進み、22日に広島市に入っています。
三原では14歳のトマス小崎が城の牢内で、伊勢で暮らす母親に信仰を捨てないよう求めた手紙を書きますが、この手紙は母に渡ることはなく、同じく捕らえられて処刑された父親・ミゲルの襟元から血の付いたかたちで見つかり、その訳本がローマに保管されているそうです。
28日、下関に着いた26人は船で九州・小倉に渡ると唐津、武雄、嬉野(うれしの)を通り、長崎・彼杵(そのぎ)に到着したのが2月4日午後。目的地の西坂は目の前に広がる大村湾の対岸にあったため、舟で対岸に着いたのが午後11時のため、舟で一夜を過ごし、刑場に着いたのは5日午前9時半ごろ。この時、混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4千人以上もの信者がまわりを取り囲んでいました。
横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定したあと十字架の下部を落とすように穴の中入れて一斉に立てられると3、4歩間隔で整然と一列に並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍(やり)を持って立っていた。2人一組で左右から刺す。槍の先が心臓を貫くため、ほとんどがひと突きで息絶えるが、すぐに死ねない場合は絶命するまで何度も刺されました。
鞘(さや)が取り払われると周囲の信者はざわつき、受刑者の間からは「イエズス、マリア」の声が響いた。
最初に執行されたのは十字架のサイズが合わなかったため首の縄が締まり窒息死寸前だったメキシコ人修道士のフェリペ(24)でした。
パウロ三木は説教者にふさわしく、絶命するまで周囲の人たちにキリスト教を信仰するよう大声で説いたそうです。
以後、ひとり、またひとりと駆け足状態で刺されていくたびに周囲から悲鳴が起こる一方、刑場内での神をたたえる声は少なくなっていった。そして、賛美歌を歌うバプチスタの声が途切れたところで刑は終わった。午前11時ごろといわれています。
この残虐な刑の執行には2時間ほどを要したことになりますが、これにより殉教者は1カ月にわたった苦しみから解放されたのです。
恐らく自らもキリスト教徒だった吉継にとって、この事件は秀吉に大きな不信感を抱かせるものだったに違いありません。
病と日本二十六聖人殉教により心身共に苦しんでいた吉継は、この時何がしかの救いを得たのかもしれません。
吉継の中で何が変わったのでしょうか?
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、吉継は三成よりも次第に五大老の徳川家康に接近したとされることから、秀吉の晩年の凶行に少なからず反感を覚えた結果、豊臣家から距離を置くことになったのかもしれません。
なぜなら、もともと吉継は三成のように最初から家康を敵視しておらず、むしろ親しかったという。秀吉が北条氏直と交渉を持っていたとき、小田原征伐を決めた秀吉は氏直の岳父である家康の出方を問題とした。そこで家康の協力を求めるために使者として駿府城に派遣されたのが吉継だったからです。
このように大谷吉継は豊臣家の家臣という立場だけに固執せず、良識をもって大局を見ていたバランスのとれた武将でした。
その後の関ヶ原では三成との友情に殉じたとされる吉継ですが、吉継自身は徳川家康とも親しく、当初は家康派だったと目されており、事実吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しようとします。
恐らく吉継は、叶うことなら家康も三成も敵にしたくはなかったと思われ、内面では心の格闘を繰り返しながらも、結果的には三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した(※異説有り、後述)。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母東殿局は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席します。
吉継の才能を高く評価していた家康は、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。このため、吉継が西軍に与したことを知った家康は非常に狼狽したという逸話も伝えられます。
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