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〜真田丸:加藤清正と石田三成の対立と離反は、文禄慶長の役に発端が・・・・〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第32回放送『応酬』では、慶長の役から戻った加藤清正が、名護屋城で出迎えた石田三成に対し、無事帰還したことへの慰労として開かれた酒宴において先に退出しようとしたたため、「お前と酒が飲みたいんだよ。」と強く引き留めますが、三成は清正の手を振り払い去ってしまいます。
その後家康の目に余るあからさまな天下取りへの動きに三成や信繁らが怒り、家康に対抗しようとしますが、思うようにゆきません。
そんな中、加藤清正が家康の娘を妻に迎えるという情報が飛び込んできます。
豊臣恩顧の最たる武将だった加藤清正が家康に近づくことになったのはいったいなぜでしょう?
確かに秀吉の死後に家康が接近したのは加藤清正に限らず、多くの大名に及びました。
ですがただ家康が闇雲に清正を篭絡しようとしても、それだけでは清正は落ちたりはしないでしょう。
清正が豊臣家を見限り、家康に傾倒するには、もっと根本的な理由があったはずです。
思うにその理由というか原因は、朝鮮半島での戦い、とりわけ慶長の役での三成の対応にあったらしいのです。
肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いでしたが、清正の家臣の中には新参の家臣が多く実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数でした。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となります。
しかしその不利な条件を跳ね除け、清正は大きな武功を上げます。
その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向に向かい、各隊は別行動をとります。
、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にしますが、当初から秀吉の意向が明本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないと、清正は秀吉の命により日本側が取った八道分遣策(隊を八つに分けてそれぞれ別ルートで派遣すること)には批判的でした。
(だからといって主命に反したわけではありません。)
案の定、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまいます。
一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった清正の二番隊は、順調に侵攻を続けます。日本本国では各隊の戦況報告を聞き、一番隊や三番隊が苦戦しているのに清正の隊だけが勝ち進んでいることに疑問を持ち、清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか?と疑いを持ちます。
ドラマでは事あるごとに常にぶつかり合う清正と三成ですが、記録に残る二人の関係性の悪化は、ドラマとは異なり、これが発端だそうです。
当然、清正もこうした日本国内の流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信感を持ちはじめます。
更に清正は朝鮮の国境豆満江を越えて、満洲へと進攻しますが、明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き上げ、ここでも戦果をあげます。
その後清正の二番隊は、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられて漢城に向かい、北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させます。
(ちなみに:亀甲車とは、もくそ城(晋州城)の戦い-黒田長政と加藤清正によれば、城壁に近づくための車で、屋根が亀の甲羅のように傾斜が付いているため、上から石を落とされても潰れず、屋根を牛の生皮で覆っているため、火矢で攻撃されても燃えないようになっていた。さらに、後ろには紐が付いており、退却するときは紐を引けば、素早く退却する事が出来ます。
亀甲車を開発した人物は後藤又官兵衛や飯田直景とされているが、実際は軍師・黒田如水(黒田如水)が古来の兵法書「孫子」に登場する「ふんうん車」を参考にして、亀甲車を作ったとも伝わる。 ) ところが、
文禄2年(1593年)3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始します。
明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。
このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正は京に戻され謹慎となります。
一方、名護屋城の築城以来、軍役やその軍勢を維持するための物資調達のために多大の負担を強いられた清正の領国を含めた九州各地では一揆が発生します。
一揆は間もなく鎮圧されますが、こうした動きが出るほど領内を犠牲にしてまでも出兵し、朝鮮半島で一番の戦果を上げたにもかかわらず、三成の判断が通されて日本に戻され、京に謹慎となったことで、清正の三成に対する不信感は頂点に達したと思われます。
結局明国との間に合意した講和条件は
というものでしたが、小西行長らが日本に有利な報告をしていたために、日本にやって来た明国の使者の言い分と秀吉が行長より伝えられていた報告が大きく異っていました。
ドラマの中でも、秀吉は明国の使者から送られた金印を日本軍が民国に勝った証と思って受け取っていたにもかかわらず、金印は明国が日本の属国としたうえで秀吉をその地の王と認めたものと知るや、秀吉は激怒して金印を投げ棄てていましたよね。
秀吉の怒りはそのまま再度の朝鮮半島への派兵へと向かわせ慶長の役が起こります。
清正は再び出兵しますが、その後秀吉は大陸への進出という夢を果たせぬままこの世を去り、家康が豊臣家の転覆を開始し、秀吉の死により慶弔の役も立切れとなり清正は名護屋城に帰還、
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第32回放送『応酬』では、名護屋城での三成と清正の思いのギャップが描かれました。
以上のような経過を経て、清正の心が三成との隔たりを決定的なものとし、それを知る家康は娘を清正に嫁がせたのです。
石田三成にしてみればこの知らせは思いもかけないことだったのかもしれませんが、清正の思いを汲むことが出来なかったという点で、自業自得と言えるでしょう。
本当か嘘かは知りませんが、もしも名護屋城で三成と清正が酒を酌み交わし、腹を割って話し合えていたなら、清正の豊臣家からの離反は無かったのかもしれません。
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