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〜真田丸:北政所(寧)は三成の家康への敵対心を責め、やがて大阪城を去る〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』の第33回放送『動乱』では、本多正信の画策により、徳川方が豊臣恩顧の諸侯や大名をみかたとして三成の徳川屋敷襲撃の動きを迎え討とうとしました。
結果的には信繁や上杉景勝らの説得によりこの動きは未遂に終わりますが、この動きの中で三成は、北政所(寧)に反対され、それ以前に北政所は、既に福島正則や加藤清正の相談を受けて徳川方に加勢すべきと伝えます。
北政所も三成も、共に豊臣家の事を思いながら、三成は家康憎しと敵対し、北政所や大谷吉継らは家康の助力無くしては豊臣家の存続は有り得ないと家康側につきます。
このように史実においても、あたかも徳川方に味方する動きを見せた北政所は、今後どうなるかというと、次回の第34回「挙兵』で描かれる石田三成襲撃事件の後まもなく、まだ幼い豊臣秀頼の後見人だった前田利家が死去し、北政所は大阪城を出ます。結果大阪城は淀殿の独壇場となってゆくのです。
このような経緯もあって、その後の徳川家康と石田三成とが東軍と西軍の総大将として戦った関ケ原の戦いにおいても、北政所は秀吉の正室でありながら、徳川方に傾倒していたと見られていましたが、近年そうした北政所に対する見方は改められた説が有力です。
その直近の出来事を順に列記すると、以下のようになります。
1.慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が没する。
淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたった。武断派の七将が石田三成を襲撃した時に徳川家康は最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている。
2.慶長の役が秀吉の死により立切れとなり、慶長3年1598年)の内に加藤清正らが朝鮮半島より帰国。
3.石田三成が島左近と共に徳川屋敷を襲撃する動きを見せるが、未遂に終わる。
大阪城より北政所が去るのは、秀吉の死からわずか1年後の事なんですね。
果たして次回の第34回「挙兵』では、どのような経緯で北政所は大阪城を去るシーンが描かれるのでしょうか?
注目しましょう。
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