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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:徳川屋敷襲撃未遂事件は無かったが、噂で大名が集結する騒動は〜
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 
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NHK大河ドラマ 真田丸』の第33回放送『動乱』では、石田三成が徳川家康を襲撃する計画を決意するも、その計画が未然に漏れ、大多数の大名や豊臣家の家臣までもが家康側に加勢するため伏見の徳川屋敷に集結
し、最終的には大谷吉継や真田昌幸も徳川方につきました。
結局三成についた大名は上杉のみであっため、襲撃を断念します。


〜真田丸:通説では、徳川家康襲撃を計画したのは三成ではなく島左近なのに〜では三成の家臣である島左近が三成に秀吉暗殺の案を持ち掛けたものの、三成は暗殺などというこそくな手段は出来ないと断ったため、そうした騒動は無かったとご紹介しました。

徳川屋敷襲撃未遂事件はなかったのですが、そのような噂はあり、そのおりには多くの大名や秀吉の家臣らも徳川屋敷に駆け付けたという騒動はあったようです。

慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。
との記述はあります。

そこで改めてドラマで徳川屋敷に集結したメンバーについて見てみると、

以下のように徳川邸襲撃の風聞についての記述はない。
豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。
このころより家康は、細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。
3月3日の利家病死直後、福島正則加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価さ]、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。
9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。
9月9日に登城した際、前田利長浅野長政大野治長土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院江戸に人質として差し出し、出兵は取りやめとなる。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。

正信が実際に歴史の表舞台に立つのは、慶長3年(1598年)の秀吉死去の頃からである。この頃から家康の参謀として大いに活躍するようになり、家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。
との記述があり、家康のために色々と有る事無い事をでっち上げていたのかもしれません。

慶長3年(1598年)〜慶長4年(1599年)の記述はない。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599年)には加藤清正福島正則加藤嘉明浅野幸長池田輝政黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。
とあるだけです。

慶長3年(1598年)6月から慶長5年(1600年)7月までの2年間にわたり、昌幸の上田領での発給文書は皆無であり、この頃は上京していたと推測されている。昌幸は表向き家康に従っていたようであり、家康が大坂城西の丸に移ると、昌幸も他の諸大名に伴って伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を国許にいる信幸に向けて送っている。
とあるだけです。
(一言:ですが「昌幸は表向き家康に従っていたようであり、」ということは、それはつまり動乱の時を待っていたということに。正に第33回放送の題名『動乱』そのままの時を。)

慶長3年(1598年)〜慶長4年(1599年)の記述はない。

慶長3年(1598年)〜慶長4年(1599年)の記述はない。

慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。
とあるだけです。

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた。その後、年末か年明けに土佐に帰国した。
慶長4年(1599年)3月、三男の津野親忠を幽閉している。その直後から体調を崩しだした。4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には豊臣秀頼に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して、5月19日に死去。享年61。高知県高知市長浜にある天甫寺に葬られる。
とあるのみです。

 慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。
とあるだけです。

慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
とあるのみです。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。慶長4年(1599年)3月28日に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。
とあるのみです。

慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康は、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死すると、その直後に三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。
との記述があるが、徳川邸襲撃の風聞についての記述はない。

宇喜多騒動として
秀吉没後の慶長4年(1599年)、重臣だった戸川達安岡利勝らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。騒動の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継徳川家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰ることとなる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなった結果、家康が裁断し、内乱は回避された。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となる。この騒動で戸川・岡ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。
原因は家臣団の政治的内紛に加え、秀家の素行に問題があったことのほか]、宇喜多家の執政であった長船綱直や奉行人中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満、さらに宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団に対してキリシタンへ改宗するよう命令するに至ったためともいわれる。しかし坂崎直盛は敬虔なキリシタンであり、宇喜多家内でキリスト教入信を斡旋し、明石全登などを入信させたのは直盛本人である。これにより、キリスト教徒と日蓮宗徒との軋轢というのは考えにくく、また綱直は宇喜多家譜代の家臣であり、譜代家臣と前田家からの御付組みとの対立との構図も外れており、背景の詳細は分かっていない。
と言う記述があるのみです。

慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去以降、豊臣政権が五大老による合議で運営されはじめると秀吉の遺命として翌慶長4年(1599年)2月5日付け徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、旧領の筑前名島30万7,000石へ復帰した。
とあるだけです。

徳川邸襲撃の風聞のあった慶長4年(1599年)の記述はない。

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徳川屋敷襲撃前の信繁と三成

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