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〜真田丸:堀秀治が上杉謀反と家康に知らせた理由と上杉側の思いとは〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回と同じ書き出しになりますが、
直江兼続が直江状を送らなければならなかったそもそもの原因は、国元に戻った上杉景勝が家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出していることを、最上義光や堀秀治らが家康に報告したことによります。
堀秀治がが上杉に反感を持ち、家康に忠義を示すそれなりの理由とは何でしょう?
この場合も秀吉の生前に遡ります。
上杉景勝が秀吉の生前に越後から会津へ国替えとなったとき、上杉家のあとに入ったのが、堀秀治でした。
直江兼続、エピソード - トノの城によれば、
国替えを命じられた場合、通常は1年の半分の年貢米を新領主のために残しておくのが通例だったそうです。
しかし、秀治が新領地:越後に着任してみると、年貢によって蓄えられた米倉が空になっていたのです。
兼続とて新領主のために半年分の年貢を残して行く暗黙の儀礼決まり事は承知していたはずです。にもかかわらず兼続は、1年分の年貢米全てを会津へ持って行くよう命じたのです。
当然 秀治は半年分の返還を申し入れますが、兼続は「会津の旧領主の蒲生氏も1年分を持ち去ったので、返せない」と答えます。
本当に蒲生氏も上杉の国替えの地となった会津の年貢を持ち去ったのかは分かりませんが、兼続はそう答えました。
そこで、困ったのは、秀治。しかたなく、新潟代官の河村彦左衛門から米を借りて急場をしのぎますが、この彦左衛門、実は上杉旧家臣。兼続は彦左衛門から秀治の借用書を買収して、しつこく催促したとか。
弱り目に祟り目とはこのことです。
しかも上杉の仕打ちはこれだけではなかったのです。 当時百姓は勝手に引越しできないように各国で登録されていました。にも関わらず上杉は、登録してある百姓まで連れて行き、更には上杉旧家臣の浪人を越後に置いて行き、兼続はその牢人たちにたびたび一揆を起こさせたのです。
こうまでして、徹底した嫌がらせは秀治が領地経営に失敗させることで、上杉家は再びの越後復帰を考えていたか、ある目的で秀治を越後に釘付けにしておくためだったとも言われているそうですが、これは少々度が過ぎます。 そこで秀治は上杉氏の軍事強化の情報を入手すると、それを徳川家康に密告し、結果的に?(それとも作為的に)上杉討伐の口実を家康に与えることとなったのです。 このことが事実で、この事だけで判断すれば、上杉家、とりわけ直江兼続はドラマで描かれる人物像とは異なり、けっこう悪い奴だったことになります。
果たしてそうなのでしょうか?
これを兼続に対して好意的に推察すると、よほど堀家との因縁があったと理解する他はありませんが、上杉家もしくは直江家と堀家との間にどのような因縁があったかについては分かりません。
ですが堀秀治は越後の隣国の武将でした。
隣接する国同士に何らかの因縁があっても不思議ではなりません。
堀家との因縁は分からいながら、上杉が国替えの時に同情すべき点はあります。
本来国替えを命じられるのは、当事者に何らかの落ち度が有った場合の処罰です。
しかし少し以前のド『真田丸』の中でも兼続が「当家になんの落ち度もない」と語ったように、この国替えは処罰としての国替えではありませんでした。
秀吉が天下人となってなお、豊臣におりあらば反旗を翻しかねない野望と国力を持った伊達と徳川を監視する役目を上杉に担ってもらうために、奥州と江戸の両国を見据えられる会津の地に上杉は国替えさせられたのです。
見知らぬ地におもむく労苦と、厄介な大国を監視・警戒する重大任務を秀吉に押し付けられた上杉にしてみれば、旧領地での年貢や農民を持ちだすくらいの特例を免除されて当然と思ったのかもしれませんし、その上杉に代わって旧領地に堀秀治が入るには、会津での軍備拡張の件以外でも、上杉の動きや内情を、家康や秀吉に密告されていたのかもしれません。
何より、上杉はいつかまた越後に帰って来ることが、最大の望みだったはずですから。
次回は上杉景勝らが新領地に戻った本当の理由について記します。
堀秀治公の墓
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