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〜真田丸:北政所は天下分け目の戦いとなる直前に自身の半生に失意し〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
〜真田丸:石田三成襲撃事件の黒幕は家康。が、全てが思い通りとはならずに〜では、
石田三成襲撃の動きを事前に知った信繁が、北政所や家康に七将の不穏な動きを止めてもらうよう願い出ますが、北政所はもう煩わしい政治向きの事には係るのは御免と、近く出家するつもりであること口にしたことを取り上げ、北政所は結局ドラマでは、秀吉の死後に徳川と豊臣の間に次々と生じる軋轢(あつれき)に嫌気がさして一線を退くという設定で描かれた事に対し、私の推察とは少し違いますが・・・私の推察については後日に。と記しました。
そこで今回は、なぜ北政所は秀吉が世を去り、徳川家康が台頭して来たことで豊臣家子飼いの大名たちが同じく豊臣家の奉行として秀吉の死後はその生前にも増して政治に強くかかわる石田三成との対立を深め、家康との繋がりを強くして行くという豊臣家にとって重大な局面で、出家することを決意したのかについて考えてみようと思います。
これまで秀吉は生前天下を取る過程で、各地の大名を支配下にして行く過程で多くの血を流しました。
その一方で豊臣の軍門に下った大名を確実に従わせるための人質としての妻子などの世話をしたのが北政所でした。
秀吉と北政所は戦国時代には珍しい恋愛結婚で結ばれながら、秀吉との間に子を生すことが出来ませんでした。
そのこともあってか、北政所は豊臣家に預け置かれた人質たちをまるで我子を愛おしむかのように家族同然の処遇をもって接し、その結果各大名はそのことに感謝し、人質たちの中には、北政所を母のように慕う者も少なくなかったと言われます。
北政所の慈愛は大名から差し出された人質だけに止まりません。
敵対することとなった徳川家康も一目を置き、その子:秀忠に至っては、人質として身柄を預かった折にもわが子のように接し、秀忠もまた北政所を生涯実母のように慕いました。
つまり北政所は、天下人たる秀吉が武力をもって世を総べる傍らで、生涯に渡って秀吉とは対極の愛をもって支えたのです。
そもそもその慈愛の始まりとして、秀吉が天下人となるまでに、文字通り我子のように長らく接して来た武将がいました。それが加藤清正や福島正則だったのです。 にもかかわらずその我子のような清正や正則を含む豊臣恩顧の七将:福島正則(尾張清洲城主)・加藤清正(肥後熊本城主)・池田輝政(三河吉田城主)・細川忠興(丹後宮津城主)・浅野幸長(甲斐甲府城主)・加藤嘉明(伊予松山城主)・黒田長政(豊前中津城主)が
家康の台頭により豊臣家が二派に別れ、石田三成襲撃に動き、豊臣秀頼が成長するまでの豊臣家をサポートしてくれると思っていた家康が、野心を露わにしはじめたのです。
恐らく北政所は、三成らと家康方とのイザコザに嫌気がさしたというより、私はいったい何を今までやって来たのだろうという深い喪失感に打ちひしがれ、出家することを決意したのではないでしょうか?
分け隔てなく我子や家族のように接して来た豊臣恩顧の武将たちがそれぞれの思いの違いから豊臣内部で分裂し、人質とされた各大名の際しと家族のように接して来たにもかかわらず、その当主たる各大名は、北政所の恩などなかったかのように家康の力のもとに集結して豊臣に仇名そうとしている。
「私は生涯を掛けて成して来たことは何一つ泰平の世には繋がらなかった。
私は何と無力で、人とは何と愚かな存在なのか?私の愛した子たちは、みな戦いの中で死を迎えようとしている。」と。 北政所は笑ってますか?その目に涙が浮かんではいませんか?
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