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〜真田丸:小早川秀秋は裏切り者、しかしその陰に小早川隆景の忠義が〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
小早川秀秋は『NHK大河ドラマ 真田丸』第35回放送『犬伏せ』の中でも、大城における徳川への石田三成挙兵に伴い、成り行きで大坂方に組みしますが、この時期は徳川方のスパイとして大阪方(豊臣方)板に潜入していた部岡江雪斎との会話の中で愚痴るばかりのつまらない武将として描かれていました。
石田三成が挙兵の指示を各人にを伝えた後、自身の部屋に戻った秀秋は、江雪斎を相手に愚痴をこぼすシーンです。
秀秋:「伏見城を攻めることになってしまった。戦の采配など、もう勘弁してほしいわ。」
江雪斎:「それなら、止めておかれませ。」
秀秋:「断れるわけなかろう。」
江雪斎:「では、戦うと見せかけ、なるべく動かぬ事。」
秀秋:「そっちの方がj難しいわ。気がめいる。」
江雪斎:「金吾様。」
秀秋:「なんじゃ。」
江雪斎:「実は拙僧、徳川内府殿に間者として送り込まれた者にござりまする。」
この江雪斎の言葉に秀秋は言葉を失い、目をうろつかせた後、江雪斎に視線を戻すと、江雪斎は黙ってうなづきました。
小早川秀秋は、関ケ原の戦いの最中に、豊臣方として布陣していたにもかかわらず、家康の大砲による脅しにより徳川方に寝返り、豊臣軍との交戦を開始したことが広く知られています。
この、およそ戦国武将としてあるまじき行いを見せた小早川秀秋とは、いったいどのような人物だったのでしょう?
秀秋は高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をし、それ以外にも客人への借金申し込みをしたという記録が残っているくらいですから、もうどうしようもない人物だったようです。 にもかかわらず秀吉は、少なくとも秀頼が誕生するまでは、自分の親族として重用し、後継者候補として丹波亀山に10万石を与えます。 なぜ秀吉はこのような箸にも棒にもかからない秀秋に愛想を尽かす事もなく、可愛がっていたのでしょう? 『NHK大河ドラマ 真田丸』第33回放送『動乱』の中では、石田三成が徳川屋敷を襲撃しようとした時、真田信繁が大大名の毛利家にも豊臣家(三成側)に味方してもらうために秀秋に口をきいてもらうよう頼みますが、北政所は、「この子をごたごたに巻き込むのは止めてちょーでぁー!あんまり難しいことを考えるのは得意ではないんだでー。」と語ったように、
秀吉よりむしろ北政所が秀秋を甘やかして育て、溺愛していた意向がそのまま秀吉に受け入れられたのではないかと思われます。
しかし、この秀吉の策略に気付いた毛利輝元の家臣の小早川隆景は、毛利家を難儀を救うために、秀秋を自分の養子に貰いたいと進言します。
つまり隆景はやっかい者の秀秋を引き受けることで毛利家に忠義を示したのです。
しかしこれにより秀秋の思いは更に荒み、これまで以上に自堕落な者となったに違いありません。
愚鈍と噂される秀秋を養子に貰うことで、毛利家を守った小早川隆景でしたが、後に秀秋が当主になった結果、小早川家は名前を消すことになるのです。
(一言:何と不条理なお話でしょう。なぜなら、小早川家と言えば、秀秋による裏切者として後世にまで長く広く知られるだけで、その陰に小早川隆景の毛利家に対す忠義について語られることは殆ど無いのですから。)
関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)、秀秋は21歳の若さで急死します。
秀秋のこの早世に関して、吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹し、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという逸話も残されていますが、実際に残されている病歴からは酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力となっています。
結局は秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易されます。ちなみにこれは、徳川政権初の無嗣改易であったそうです。
秀秋の旧臣たちは関ヶ原での主君の裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるそうですが、実際には最期まで秀秋に仕えた後に幕府に召し出され、大名となって立藩した平岡頼勝がいる他、前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいたそうです。
このよに秀秋の不名誉な行いにより一旦は改易となた小早川家ですが、秀秋の死後に側室から生まれた羽柴秀行という子がおり、その子が秀秋の兄・木下勝俊に養われ、その家臣となったという伝承もある。小早川氏は明治になり毛利本家からの願い出により、再興の勅命が下って毛利本家からの養子により再興したとする異説もあります。
しかし、このように愚鈍と噂される秀秋を養子に貰うことで、毛利家を守った小早川隆景でしたが、後に秀秋が当主になった結果、小早川家は名前を消すことになってしまいます。
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