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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:36回放送『勝負』で描かれなかった関ケ原の戦いを巡る攻防(前編)
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 
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今日は36回放送『勝負』では消化不良となった関ケ原の戦いを巡る東西両陣営の攻防の経緯を、二部に分けてご紹介します。

西軍の司令塔とも言える石田三成は、秀吉に対する天下の動向の報告や、諸将に対する命令を伝達える役目を担う秀吉の一番の側近でした。

そんな三成による余談を交えないありのままの報告は、秀吉の命に従って事にあたる諸将にとっては、自ら事にあたり、武功を上げることも、戦場で傷つくこともなく他の者の失敗や罪状を秀吉に告げ口をする嫌な奴でしかありませんでした。
それは三成の報告により処罰を受けた者にとっては、許しがたい事だったのです。
「現場の苦労も知らない癖に!」と。

従って、豊臣秀吉が生きている頃から豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする今で言う官僚派の五奉行と、合戦で戦っている「武断派」の間では常に内部対立がありました。
「この腰巾着(こしぎんちゃくめ!」と。
そしてこの豊臣家の内部対立こそが主要原因となって、関ヶ原の戦いは勃発したのです。
 
しかしそんな火種だけでは三成に対する不満というもやもやした煙のようなものが燻り続けるだけで、大爆発にまでは中々至りません。
そんな内部対立に対して「シメシメ。」と薄笑いを浮かべてこれを利用して天下を握らんとしたのが五大老筆頭の大名:徳川家康でした。

つまり家康の天下取りの野心が、燻り続けていた火種にガソリンのようなものを撒き散らし、一気に大爆発を起こさせたのです。

秀吉の死後、家康は勝手に婚姻や知行の斡旋などを行うよになりますが、これは秀吉が生前より厳しく禁じた行いでした。
従って豊臣政権下にあっては今で言う憲法に違反する行為であり、当然非難されるべきものでしたが、その家康の独断的な行いにより恩恵を受けた武将にとっては、ありがたいものであり、それを非難している石田三成らは嫌われ者ですから、聞く耳を持たない者が多かったのです。
 
しかし、そんな二派の対立に割って入る中立派の存在もありました。
その人こそが秀吉の嫡男として生まれ、幼くして豊臣家の当主となった秀頼の後見人を任された前田利家です。
利家は、二派の間にもめ事があるごとにその仲裁役として火消し役を務めます。
彼は織田の家臣時代から秀吉と共に信長の重臣として働いた武将ですから、秀吉の信任も厚く、秀吉の死後も五大老の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名から慕われていた人徳を併せ持つ唯一無二の存在でした。
ところが家康が不穏な動きを見せるそんな最中に、利家が高齢により他界。
これにより豊臣家は二派の対立を繋ぎ止めるタガを失ってしまいます。

案の定、利家が他界した翌年、石田三成 暗殺未遂事件が起こり、天下は一気に動乱へと走り始めたのです。
しかもこの襲撃の主たるメンバーは、福島正紀・加藤清正・黒田長政・堂々高虎・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長といういずれも豊臣家子飼いの大名だったのです。
このとき、石田三成 はその動きを事前に察知して姿をくらまし、難をのがれますが、そのままでは事件の決着には至りません。

ですがこの時家康は、表向きには事件の仲裁を行って事なきを得ます。
 
しかしこの仲裁には家康の計算による裏がありました。
事件後、石田三成は謹慎処分となり、一時的に失脚、これにより家康は、自身にとって最も鬱陶(うっとう)しい存在の三成を合理的に排除することに成功したのです。
結果その行いを大名どころか北政所も高く評価し、徳川家康の影響力はさらに大きくなることとなります
逆に豊臣家のために非情に徹して働いてきた三成の立場は、地に落ちます。
つまりこの時点で、家康による天下取りの時は熟したのです。

石田三成 が暗殺未遂事件で失脚すると、徳川家康は大手を振って豊臣家の中枢であった大阪城に入り、自ら政務を指揮するようになります。
しかし三成が失脚して後も政権に残った他の豊臣五奉行としては面白くありません。
二派の対立は以前にも増して深まっていきます。
 
そんなある日、 利家の死後に前田家を継いでいた前田利長と豊臣五奉行の1人浅野長政が結託して徳川家康 暗殺計画」を計ったとの発表がなされます。
つまり、家康による敵対勢力のあからさまな粛清が始まったのです。
 実際に二人がそのような動きを見せたのかどうかは不明ですが、家康に反感を持っていた事は確かですから、家康が前田利長と野長政の犯行をでっち上げることは容易かったでしょう。
いずれにせよ、この一件により五奉行の1人浅野長政は失脚。
さらに家康はこの計画をしていた「前田家」を討伐するとして、兵を集めて出陣の準備を進めます。
この騒動は前田利家の妻であったまつ(芳春院)が徳川の人質となり、いち早く前田家が服従する姿勢を見せたため前田家にとっての最悪の事態(改易)は回避されますがその結果として家康は前田家を従える事となります。
この前田家が利家が生前に秀頼の後見人であったにもかかわらず、後の関ケ原の戦いで東軍として動くことになったのも、西軍にとっては大きな痛手でした。

1600 年のお正月、名実ともに豊臣家の中で一番の権力を得た家康」は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めます。
ところが、この挨拶を上杉家だけは断り、家康の要請を伝える使者として、家康の命に従うようように景勝を説得しようとした上杉家の家臣を、謀反の疑いで処罰しようとします。
 
そのためその家臣は上杉家を出奔(離脱)し、家康に上杉に謀反の気配がありと報告しますが、それ以前から上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、合戦の準備を行っているという情報は近隣の大名らによって伝わっていました。

そこで家康は、これらの件について釈明を求める書状を出しますが、上杉家の重臣直江兼続は、
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけ。京では茶器などを集めているのが武士のたしなみでしょうが、当家は田舎者ゆえ武具を整えることしかできません。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたことを棚に上げて、当家に違約違反を言うのはおかしなこと。 前田家をお仕置きしたと聞きますが、大層なご威光ですね。
当家にも前田家にしたような有らぬ疑いによる汚名を着せようというのなら、こちらも兵を率いて出迎えてやるのでいつでもその覚悟を持って来るがよろしかろう。」
といった内容の世に言う「直江状」を送りつけます。
これによりついに関ヶ原の戦いの引き金が引かれる結果となったです。

こうした上杉家の離反は家康の目論見どおりだったとも言われますが、はその想定を遥かに超えた無礼な「直江状」に家康は激怒し、大軍を率いて大阪城を離れ、会津征伐に乗り出します。

1600 年6月、大阪城に徳川派が居なくなった隙を突いてすかさず石田三成は行動を開始、かねてからの友人であり、豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わせたほどの名将:大谷吉継を説得して共に家康を討つべく共闘関係を結びます。
 
その後、石田三成は豊臣五奉行の「増田長盛」や、豊臣家の重臣で友人の「小西行長」、豊臣五大老の大名家「毛利家」 の家臣の僧侶「安国寺恵瓊」などと共に打倒徳川の計画を立案。
1600 年7月、石田三成 はついに「徳川討伐」の挙兵を宣言、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の前田家や上杉家を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な家康の罪状を並べたて、その討伐を訴える「内府ちかひの条々」を発表し、諸将に集結を呼びかけ、中国地方の大名「毛利輝元(毛利元就の孫)」を総大将として軍勢を準備し、西軍が結成されます。
さらに西側の大名家が徳川軍に参加できないよう関所を封鎖し、大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えます。

そして翌日、徳川の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」を総攻撃。
「伏見城」には徳川家の重臣鳥居元忠が率いる守備兵は 1800 ほどで、攻める西軍側は1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢が参加して戦力がどんどん増加、伏見城側は多勢に無勢の状態になっていきます。
結果、伏見城は炎上して鳥居元忠は戦死しますが、その報告は上杉家に進軍中の徳川軍に伝わります。

三成らの挙兵を知った徳川軍は、このまま会津への進軍を中断し、今後について話し合います。世に言う「小山評定」です。
ここで徳川家康は武将達に「人質を取られ困っている者もいるだろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言します。
すると「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者の1人であった猛将福島正則が「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する!」と発言、同じく三成暗殺未遂メンバーだった「黒田長政」がそれに続き、さらに織田家の旧臣だった内一豊が「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する!」と宣言します。
これらの発言で反対意見はなくなり、上杉家に進軍中の徳川軍はそのまま大阪方面に戻って、石田三成軍と戦うことが決定、東軍の結成です。
これで石田三成(豊臣)軍=西軍と、徳川家康軍=東軍という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定付けられたのです。

続きは次回の後編で。

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             三成のために西軍として出陣した大谷吉継

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