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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:第二次上田合戦を描いた第36回放送『勝負』と史実との違い
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 
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真田丸:36回放送『勝負』で描かれなかった関ケ原の戦いを巡る攻防(前編)〜でも記したように、秀吉は亡くなったものの未だ豊臣政権下でしたが、家康は他の大名とは比べものにならない程の国高の領地をもち、五大老筆頭として徳川政権中枢部における支配力は、それまで秀吉子飼いの大名として並び立つ者のなかった石田三成をしのぐ権力を得ていました。
やがて三成暗殺未遂事件の仲裁によって北政所や淀殿の信任を得えながら仲裁の条件として三成を失脚させると、折悪く豊臣家の嫡男:秀頼の後見人であった前田利家が死去し、畳みかけるように前田利長と浅野長政らが結託して徳川家康 暗殺計画を企てたとして浅野長政を失脚させ、前田家に対しては兵を集めて討伐すると脅します。
結果、前田家は討伐されることを回避するために利家の妻であったまつ(芳春院)を徳川の人質として差し出し、前田家はこれ以後、徳川家に従わざるを得なくなります。
このように着々と天下取りに動く徳川に対し、上杉家は年賀の挨拶のために上洛せよとの家康の命に応じず、「直江状」によって宣戦布告し、大坂では石田三成が徳川を打倒すべく挙兵します。

以上のように風雲急を告げはじめた慶長5年(1600年において、

6月、
第34回放送『挙兵』で描かれたように三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵するより先に家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れる時、真田昌幸も東軍を率いる家康に従っていました。

ところが7月下旬、
第35回放送『犬伏』で描かれたように、昌幸は下野で次男・真田信繁(幸村)とともに徳川から離反すると、上田に帰還し西軍に立ちます。
ただし長男:信幸は東軍に従う決断を下します。
真田のこうした敵味方に分かれる動きは西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたというのが長年に渡って通説になっていました。
しかし近年では、信之の妻:稲が家康の養女であり、信繁の妻:春が大谷吉継の娘であることと、昌幸の妻:薫が石田三成の妻:つたとは姉妹の関係にあったことが理由と指摘されているます。
徳川家康率いる東軍は、西軍の挙兵を受けて下野国小山において、軍を西に返し、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進みますが、徳川秀忠いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで、真田父子の上田城西に向いました。

9月2日
第36回放送『勝負』描かれたように、小諸に到着した秀忠軍は、会津征伐に参加を求める家康の書状に応えて兵を招集していた仙石秀久が単騎で出迎え、小諸城を本陣としての提供と兵の加勢も受けて真田攻めに着手します

9月3日、
上田に接近した秀忠軍に対して、昌幸は嫡男・信之を通して助命を懇願します。
一言:この件について第36回放送『勝負』では、本多正信が第一次上田合戦において真田が上田城の手前を流れる神川に堰を設けて河水を溜めた上で堰を切り、敗走する徳川軍を流れに巻き込んで多大な被害を与えた教訓から、攻める前に堰を先に切ってしまいましたね。このこと知った昌幸は、「まだ早いか?」と呟き、時を稼ぐために秀忠軍に降伏を申し入れたという設定で描かれていました。)
で、史実においても秀忠はこの昌幸の降伏を受諾するのですが、
一言:ドラマでは今回が初陣の秀忠もこの昌幸の申し入れにうさん臭さを感じて「戦う前から降参するようなことがあるのか?」と正信や信之を前に疑問を投げかけていましたね。)
ところが4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったようです。
一言:この件については、真田・徳川の双方が信濃の国分寺にて会見し、信繁が秀忠軍の使者としてやって来た元豊臣家の家臣:平野長奏に対し真田が徳川に降伏する替わりに、一つ、城は明け渡します。二つ、兵は皆、城から返します、三つ、真田安房守の命は取らぬと約束される事。四つ、城はいずれ返して頂くこと。五つ、本領は安堵。六つ、真田安房守を徳川の家臣として丁重にお扱い頂くこと。などと、およそ敵軍に降参した側が述べられるはずもないう条件を認めて頂きたいなどと申し入れます。もちろんこんな条件が敵軍に受け入れられるはずもなく、両軍は戦闘状態に入りますが、昌幸の目論見通り、時間稼ぎはまんまと成功します。)

9月5日
秀忠軍は、上田城に接近し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向けます。
徳川首脳陣には真田一族である信之に疑念を覚える者が多く、実弟と戦わせることによって信之の心中を試すと同時に、万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われます。
迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げます。
信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨(かちどき)を上げます。
これは、信繁が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われています。
事実、信繁が戦わずして戸石城を信之に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。
戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取ります。
一言:ドラマではこれも本多正信の考案として描かれていましたね。)

9月8日、
牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを実行しようとすると、徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から外へと現れ、そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢は敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、上田城の大手門前まで迫ります。
しかしそれらの流れは全て昌幸の作戦だったのです。
これは第36回放送『勝負』で描かれたシーンとは随分異なるのですが、
城よりおびき出されたかに見えた真田の兵を追って徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が射撃を浴びせます。
さらに城内からも銃矢が攻撃をし、徳川方の先鋒は混乱に陥ります。これは徳川勢はおとりとなって逃走する真田勢を追撃したところを、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていたため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を打ち破ったというものでした。
一言:ドラマでは秀忠軍が当初本多正信が考えたように、先手で苅田戦法を行うことができず、真田軍が各所に散らばる小さな陣営をゲリラ的に襲撃し、兵糧小屋から兵糧を先に奪い取ったのは真田軍の小山田信茂で、それにより食糧不足となったことで秀忠軍は苅田戦法に出ますが、待ち構えていた堀田作兵衛らによって襲撃されていましたよね。)
記録によれば、さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけます。前日の夜に上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけます。
信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、秀忠本陣に攻めこみますが、秀忠自身は家臣に馬を与えられ、小諸へと逃れたとあるようです。
一言:ところが第36回放送『勝負』では、このように秀忠が窮地に立ち、辛くも逃れたというシーンは全く描かれませんでした。それどころか家康の催促により密かに小諸を抜け出て家康軍との合流に向かう秀忠は、「総攻めを掛けてやりたかったなー。必ず勝って負った。」などと負け惜しみのセリフを吐いていましたね。」信繁が秀忠本の陣を襲撃したシーンとして描かれたのは、太郎山の前衛の山腹を超えて蚕山の山腹にある染屋腹に張っていた秀忠本陣を奇襲した時には、もぬけの殻だったというものでした。なぜ主人公の信繁がまんまと奇襲して秀忠にあと一歩のところまで迫ったという美味しいシーンを無理やり曲げたのでしょう?これは関東の視聴者に気を使ってのことでしょうか?それとも三谷さん自身が徳川びいきなのでしょうか?
また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦は真田方の勝利に終わった。
一言:つまり徳川方は第一次上田合戦と同様の仕打ちを真田にまたしてもしてやられたんですね。)
このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、

9日には
一旦全軍を小諸へと撤収させた。しかしその直後になって家康の書状を携えた使者が到着。その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」というものだった。秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いします。

9月15日
結局秀忠軍はこの日の関ヶ原本戦には遂に遅参してしまいます。
本多正信の知将としての才覚は、それに勝るとも劣らない軍略を持つ上に地の利を味方にした昌幸の戦法には全く歯が立たなかったのです。

このように秀忠軍本隊は上田攻めを諦めて西に向かいますが、その後も松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も上田城の北にある葛尾城兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを尚も行い、小競合いが続いたそうです。

また、結果的にこの第二次上田合戦の序盤において、逃げる城兵の誘いにのって城門内にまで攻め込大敗のきっかけを作ったとして大久保忠隣牧野康成・忠成の親子らはその責を問われます。

このうち大久保忠隣は現場指揮官を切腹させて許されますが、牧野忠成所属の指揮官の贄掃部を逃して本人も出奔してしまいます。
の牧野康成も部下の抜け駆けは戦国の倣いと弁護したため、徳川秀忠の怒りを買い上州吾妻城に蟄居させられてしまいます。
一言:部下を攻めるのは容易いけれど、そもそも総大将の秀忠の采配が悪いからこその敗戦でしょ。)
しかし、戦後は大御所家康の意向もあってか処分は数月にして寛恕され、康成・忠成父子は大胡(群馬県前橋市茂木町)に復帰したそうです。

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2016/9/20(火) 午後 3:32 蜂蜜の風

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> 蜂蜜の風さん
いま一つおっしゃる意味が分かりませんが、普段の私は悲しいかな下から目線です。

2016/9/20(火) 午後 5:59 [ 上から目線 ]


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