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〜真田丸:昌幸らの九度山流罪を決めた家康・秀忠の思いと首謀者の処分〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
〜真田丸:第二次上田合戦を描いた第36回放送『勝負』と史実との違い〜でご紹介したように、真田昌幸と信繁は、大軍をもって攻めよせた秀忠軍をほんろうし、秀忠軍わずかな兵力で撃退しました。
しかし東軍と西軍が戦った関ケ原の戦いにおける西軍の大敗が1日の内に決着します。
関ケ原の戦いの結果、豊臣方(西軍)として戦って生き残った武将のうち、毛利氏、上杉氏が大幅に減封されましたが、島津氏は積極的な加担ではなかったと主張し、家康この主張に折れるかたちで薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定されます。
これは、江戸から遠く離れた九州にある島津に恩を売ることで、その地を徳川のために納め、大陸からの外敵の脅威に備えることを強く望んだのでしょう。
対して豊臣方のだった、首謀者となった者には厳罰が処せられました。
戦後行方不明となった宇喜多秀家は逃亡先の薩摩で捕らえられ、八丈島に流罪となります。
一方、石田三成にたいしては、徳川に対する決起を企てた張本人のは豊臣本家とは係わりないところで独断で行ったこととされ、罪を一身に背負うかたちで家康は安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)・小西行長らと共に処刑されます。
このように関ケ原の戦いの後、処刑されたのは西軍決起の首謀者たちのみで、真田昌幸はその一人ではありませんでした。
最終的に西軍の大敗を知った真田昌幸らは徳川にたいして降伏し、合戦の首謀者でもないにもかかわらず、一旦は処刑されることになります。
これは真田軍に手ひどい目に合わされた上に本戦に間に合わなかったことで、家康にこっ酷く叱られた秀忠の意向が大きく繁栄したものでした。
もちろん、家康本人にしても第一次上田合戦での敗北の経験がありますから、真田に対する憎しみが無いはずはありませんが、天下人としては、諸侯に対して度量の大きさを示すためにも個人的感情のみで処罰することは差し控えなければなりませんが、それでもなお家康もまた真田昌幸らの処刑は打倒と考えていたのです。
ですが最終的には、信之・本多忠勝らの助命嘆願によって九度山への流罪というかたちで処罰は決定します。
これは、信之らの嘆願を受けるうちに家康が天下人としての自覚を思い起こしたのかもしれません。
ですがただ昌幸らの助命を許したのでは個人的な思いは納まりません。
秀忠に至っては何が何でも処刑したかったに違いありません。
であるならば、第37回放送『信之』でで描かれたように、死よりも辛い苦難を与えるために九度山への流罪を決定したというのは、的を得た脚本だったのかもしれません。
次回は、昌幸・信繁らの流刑地がなぜ高野山(九度山)だったのか?について記します。
徳川秀忠を演じる星野源さん
星野源さんは、日本の俳優、シンガーソングライター、文筆家。埼玉県蕨市出生、川口市出身。所属はアミューズ(音楽業)、大人計画(俳優業)。インストゥルメンタルバンド「SAKEROCK」のリーダーとして、主にギターとマリンバを担当したほか、エッセイストやコラムニストとしても複数の連載や刊行物を著しているマルチタレントです。
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