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大谷吉継を語る時、真っ先に語れる事と言えば、彼が抱えていた不治の病と、石田三成とのエピソードですよね。
そしてその次に語られるのが、真田信繁の義理の父だということでししょうか?それとも関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋の裏切りにより本陣を攻められ、自刃したことでしょうか?
〜真田丸:大谷吉継は政権の中枢から外れた頃、秀吉の行いと病に苦しみ〜でも記しましたが、
吉継は、戦乱の世にあってひたすら大局に立って物事を見ていた人物だったようです。
吉継は豊臣軍が朝鮮への出兵を開始した当初の文禄3年から数年にはその疲れもあっってか、政権の中枢から外れます。
この頃の吉継は、晩年を迎えた秀吉が行った惨忍な行い(日本二十六聖人殉教)に反感をいだいて世の動向を見極めるためもあって休養期間をもったのではないかとも思えます・
そんな吉継は、朝鮮半島から帰還して関ケ原の戦いに至る直前までは豊臣恩顧の大名でありながら、家康に近づきます。
それは晩年の秀吉の行いに疑問を持ち、次世代の豊臣家を担う淀殿や秀頼の様子を見るにつけ、
豊臣政権がこのまま続いて良いのだろうかという思いに捕らわれ、現状を見る限り豊臣家に代わって徳川政権となる事の方が、まだましだと思ったからこその家康への接近だったのではないかと思っています。
ではなぜ秀吉が亡くなって以後には家康に近づいていた吉継が、関ケ原の戦いでは石田三成と共に反徳川に動いたのでしょう?
この事に関しては一般的には病により他の武将からは避けられていた吉継を石田三成は気にすることなく膿の入ってしまった茶を飲み干したという逸話に象徴される長い友人関係があったために、三成の家康打倒に寄せる思いに答えて共に決起したと言われます。
ですが私には少し違った思いがあります。
思うに吉継は、病を持っていたからこそ、他の武将にはない研ぎ澄まされた感性を持っていたはずです。
その鋭い感性は病が悪化して豊臣政権の中枢を離れていた期間には更に鋭く研ぎ澄まされ、その感性をもって、生前の秀吉よりは遥かに紳士的に見える家康の人に対する接し方を観察した結果、三成の動きに同調したと思えます。
更に言えば、豊臣恩顧の大名でありながら、関ケ原の戦いにおいて徳川軍に加わった武将の多くは、天下の情勢がより良くなるためにとか、家康の人柄に惚れて徳川方に加わったのではなく、お家の存続や保身のために、実質的に日本一の実力を得た家康に同調したのでしょう。
しかし大谷吉継に関しては不治の病を持つがために、少なくとも生への執着心が無く、しかもその病があるがゆえに研ぎ澄まされた人を見抜く力を持っていました。
政権の中枢を離れていた期間に、その心眼をもって家康を冷静に洞察していた吉継は、その裏にある黒い野望を感じたのではないでしょうか?
吉継から見れば、そんな家康の裏のある行いに対し、三成のただひたすらに豊臣家のためを思っての行いは、武骨で反感を買う事の多いものではあるが、少なくとも裏などないものでした。
病に蝕まれる吉継は、生に執着して自身の思いに反して家康に恭順する必要はなく、ただ信じる道を歩くことができたからこそ石田三成に同調したのでしょう。
真田信繁に自身の娘:春を正室として嫁がせたのもその鋭い感性をもって信繁の人物を見抜いたからこそのことだったのかもしれません。
ですがそれだけでは大谷一族を全て巻き込んで西軍に付くことにはなりません。
ですが吉継のこれまでの行いを間近で見ていた一族にとっても、その誠実な生き様は命を預けるに足るものだったのでしょう。
おそらくそんな吉継だからこそ、関ケ原の戦いにおいて西軍につけば、東軍に敗北する公算が高いことも、つつみ隠さず語っていたはずです。
それでもなお家臣や一族は、吉継と共に戦うことを選択したと思えます。
そして本戦において西軍の敗北が決定的となるや、吉継は周囲の者に戦場から離脱するように言い渡し、自らは自刃したと思えます。
そして大坂夏の陣において最後まで戦い抜いて壮絶な死を遂げようとする信繁の脳裏には、そんな吉継の生き様も浮かんでいたはずです。
『NHK大河ドラマ 真田丸』第37回放送『信之』で吉継は、自刃する直前に、「治部、楽しかったぞ。」と語って果てましたよね。
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