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〜真田丸:信之が九度山に出向き、信繁らに会ったという事実は無かった〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第39回放送『歳月』では兄:信之が訪れ、九度山で暮らす信繁の家族は揃って信之を出迎え、幽閉生活を送る信繁らと久々の対面を果たし、既に亡くなっている父:昌幸の霊前で御霊を弔います。
そして犬伏の別れ以後の信繁と信之両家のその後についてのそれぞれの暮らしぶりなどを報告しあいます。本音を隠したままの、兄に対する気休め的な。
信之:「父上が亡くなったこともあり、少しでも早くご赦免いただけるよう、これからも・・・・・うん?」
信之が言葉の途中で言葉を止めたのは、囲炉裏を挟んで向かいに座る信繁と春が、目くばせをしあっていたからです。
信繁:「兄上のお気持ちは嬉しいのですが、これだけ長く居ますと、今の暮らしに何の不満もなくなってしまいました。」
信之:「わしを気遣って、そう言っておるのだな。」
信繁は首を小刻みに顔を左右に振りながら答えます。
信繁:「いえーーっ。」
信之:「うん?皆もそうなのか?」
春:「旦那様といる間が多いので、ここに来られて本当に良かったと思おております。」
きり:「村の人たちに縫物を教えたりしてかなり満ち足りているのですよ、これが。」 佐助:「森で見つけたキノコです。」
(一言:この時佐助は、信之に見つけたキノコの墨絵を見せます。墨絵なのでそのキノコの色まではわからないのですが、・・・・・これについては次回のページで特別編として記したいと思います。)
信繁:「梅と大助に至っては、ここでの暮らししか知らないわけで、無理して上田に戻らずとも・・・・・。」 信之:「しかし、ここで一生暮らすというのは・・・・。どうなんだ大助、信濃や京、大坂に行ってみたいとは思わぬのか?」
大助は叔父の言葉に答えず黙ったままです。
きり:「こっちはこっちで何とかやっていますんで、心配されることもないと思いますよ。」
皆が口を揃えてそういうのだら、信之としてはこの件についてはひとまず納得せさるおえません。
そこで次に尋ねたのが高梨内記のことです。
信之:「内記はどうしている?」 この後信繁は、昌幸が亡くなった後に、きりの父:高梨内記が切腹しようとしたエピソードなどを信幸に語り、信之は真田の領内での苦労話を語りますが、戦場よりもこうした領地での地道な職務が性分にあっているようだと語りました。
夜になると信繁と信之は囲炉裏を前に兄弟濁酒(どぶろく)を酌み交わし、親として子供の事を語り、話は二人の父:昌幸との思い出話に及びます。
信繁:「お子達は息才にしていますか?」
信之:「あーっ、中々逞{たくま}しくそだっておる。大助は少々おとなし過ぎはせぬか?」
信繁:「私は子を育てるということが、どういうことかよくわかっておりません。」
信之:「父上という手本がああったではないか。」
信繁:「私はほったらかしでした。」
信之:「何を言うか、あれほどお前は父上に愛されておったのに。」
信繁:「(父が)愛しておられたのは兄上です。」
信之:「幼い頃は、わしは叱られてばかりであった。」 信繁:「愛されていた証です。」
信之:「大人になってからは、事有るごとにお前は面白くないと言われ、事が起きた時には、いつも蚊帳(かや)の外だ。」
信繁:「兄上に何かあっては困るからです。そんな兄上が羨ましかた。」
ここで矢沢三十郎が口を挟みます。そうです、兄弟水入らずの会話ではなかったのです。
三十郎:「私に言わせれば、大殿は、どちらも愛しておられたと思いますよ。大殿は、大殿なりにお二人を育て上げ、お二人とも立派にお育ちになられた。大殿が立派な父親であったかは、何とも言えませんがね。」
信繁:「口が過ぎるぞ。」 三十郎:「「失礼しました。」 信之:「子育ては人それぞれ、自分に有ったやり方をみつけるしかないのかもしれんな。」
親と子についての話はこれで終り、信繁は兄に対してここから本当の本音(弱音)を語り出します。
信繁:「兄上、一つお願い事があるのですが・・・・・。」
信之:「申してみよ。」
信繁:「ここでの暮らし、何の不自由もないと申しましたが、あれは嘘です。借金がかさみ、かなり暮らしはきついです。」
信之:「仕送りが足らぬか?浅野家からもお手当があると聞いておるが・・・・。」 信繁:「父上が生きておられる間は、みじめな思いをさせぬよう、暮らしぶりだけは無理をしてきました。」
信之:「そうであったか。」 信繁:「そのつけが回って来ました。きりは北政所様の世話をしていた腕を生かして村で縫物を教え、佐助も若い衆を相手に、忍びの小技を指南して小遣い稼ぎを、しかし焼石に水。」
信之:「わかった、なんとかしよう。」 信繁:「こんな事をお願いして申し訳ありません。」
信之:「これ以上、ひもじい思いはさせん。」
信繁:「にさん日泊まってゆかれますか?」
信之:「明日の朝発つ。急ぎ、京へ上らねばならんのだ。北政所様に取り次いでくれる者を、三十郎が見つけてくれてのう。」 信繁:「どうかその件はお忘れください。」
信之:「やらせてくれ。いつになるかは分からんが、また皆で暮らすのは、私の願いなのだ。」
こうした信之の温かい言葉に、信繁は黙ったまま、しかし心から頭を下げます。 ということで、九度山で暮らす信繁らは、9万5千石の立派な大名となった信之を前に気遣い、信之も弟たちの暮らしを気遣い、互いに思いやりを持って語り合いながらも、別れ際には本音で話す事もできたという、心温まる真田家の家族愛が描かれました。
ですが実際はそうではないようです。
1611(慶長16)年6月4日、真田昌幸が九度山にて逝去。65才。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/function-reinforcement/text-head-marker-img/thm-s-img/thm-s-02-go1.gifこの時、兄信之は昌幸を弔おうことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得されてやめました。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/function-reinforcement/text-head-marker-img/thm-s-img/thm-s-02-go1.gif昌幸が亡くなった翌年の1612(慶長17)年、昌幸の家臣は一周忌をすませ、少数の家臣を信繁(幸村)のもとに残し九度山から信之がいる上田へ帰りました。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/function-reinforcement/text-head-marker-img/thm-s-img/thm-s-02-go1.gif1612(慶長17)年、信繁(幸村)は出家して「好白」を名乗り始めました。
と紹介されています。
つまり信之はその思いとは裏腹に幽閉生活をおくる信繁らのもとへに訪れることも叶わず、約11年間を信繁と共に九度山で過ごした家臣たちも、昌幸の一周忌をすませると、ほとんどが信之がいる上田へと帰ってしまいます。
この時の信繁の思いはどのようなものだったでしょう?
勇猛だった父が無念の思いを残したままこの世を去り、家臣たちの多くが信繁を九度山に残して去って行った時、恐らく信繁の胸に去来するものは、惨めさと寂しさと、口惜しさの入りまじった絶望感でいっぱいだったに違いありません。だからこそ出家して「好白」と名乗った。
そんな中、思いがけず信繁の屋敷に現れたのが、大坂へ是非来て頂きたいという豊臣家からの使者だったのです。
それは再び徳川との一戦を予期しての信繁に対する招集依頼でした。
これまで父:昌幸のもとでの働きはあったものの、自らの武勇を示す機会すらなかった信繁にとって、例えその先に死が待っていたとしても、戦国武将としての最後の花を咲かせてみたいと思うことは、極めて必然的な思考だと思えます。
我が和歌山の地を早くも離れる信繁のドラマ展開には寂しさを覚えますが・・・・・・。
さあ決戦の地:大坂へ行くがいい信繁よ!真田幸村となって!
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