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〜真田丸:方広寺大仏殿の再建において家康の策略は朝廷にも及んだ?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回のページでご紹介したように、徳川家康が豊臣家を討つ口実とした慶長19年(1614年)、方広寺大仏殿の再建における方広寺鐘銘事件では、且元が方広寺大仏殿の再建に奔走していた当初より、駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っていたにもかかわらず、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていたために、家康は即座に片桐且元にあてて、開眼供養と大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じたことをご紹介しました。
上記の文章の中で今回のページにかかわるのは開眼供養と大仏殿供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていたという点です。
方広寺鐘銘事件が且元を介して供養の延期を求めるかたちで表面化したのは慶長19年(1614年)の7月26日のことですが、
つまり天台宗・真言宗の間でかねてより宗派対立が有った中で、方広寺大仏殿の再建において家康は且元を介して真言宗の僧を推薦していたにもかかわらず、供養が行われる直前に後水尾天皇(後の政仁親王)の勅命により天台宗の僧を指名したのです。
これは家康にとっては後水尾天皇(政仁親王)によって面目を潰されたことになります。
当然家康の機嫌が良いわけがありません。
その怒りは且元に向けられ、且元を豊臣家を討つための道具とすることで鬱憤を晴らすことを思いついたとも考えられます。
もちろん家康の怒りは且元のみに向けられたのではなく、後水尾天皇(政仁親王)に対しても怒りを覚えたにちがいありません。
そもそも後水尾天皇(政仁親王)は、家康の推挙があって天皇の座についたという経緯がありましたから、尚更怒りは強かったと思われます。
政仁親王が後水尾天皇となる即位の経緯はこうです。
ただし、後水尾天皇(政仁親王)は先代の後陽成天皇の第一皇子ではなく、第三皇子です。
後陽成天皇 - Wikipediaによれば、
また、天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、その第一皇子である良仁親王か八条宮智仁親王を日本の天皇にしようとする考えがあったという説があります。
ただし、二人の親王の父である後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭じ、海外進出について意見の相違があったようです。
(ちなみに、秀吉と後陽成天皇との意見の相違があったからかどうかはわかりませんが、秀吉の死後、家康を征夷大将軍に任じたのがこの後陽成天皇です。)
そして日本における後陽成天皇からの王位継承は、広寺鐘銘事件が起こる慶長19年(1614年)から遡ること20年前の文禄3年4月29日(1594年6月17日)、次期天皇即位を前提に第三皇子が親王宣下を受け、政仁親王となり、次期天皇として2年後(1596年)には亡くなった第106代の正親町上皇の御所を将来の東宮御所にすべく与えられています。
この時は生前の秀吉の意向に沿い、朝廷・豊臣政権ともに強く反対して中止されるものの、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利して政治の実権を握った徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃して、天皇の正室である女御近衛前子が生んだ第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇)を代わりに立てることを条件に、第一皇子の良仁親王を皇位継承者から外す意向を朝廷を豊臣家に納得させたのです。
ではなぜ朝廷や豊臣家は第一皇子を外す代わりに、政仁親王(後の後水尾天皇)を立てるという条件を渋々ながらでも了承したのでしょう?
言い方を変えれば女御近衛前子が、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要から朝廷の威信回復に尽力した秀吉の猶子だったからこそ高位の妻として天皇に迎えられ、朝廷と豊臣家はWin-Winの関係を保って支配的な立場を補填しあったのです。
このことから人道的には、たとえ秀吉が亡くなり、天下の実権を家康が握るようになったとしても、朝廷は秀吉から受けた恩、ひいては豊臣家に対する感謝の念を忘れてはならないと言えるでしょう。
にもかかわらず、後陽成天皇は秀吉の押す良仁親王の皇位継承を拒み、これに家康の仲介が入って第三皇子の政仁親王を次期天皇として立て、後水尾天皇としたのです。
そして政仁親王に家康が接近していることを知った秀吉は、政仁親王が次期天皇では豊臣家に災いをもたらす恐れのあると考えたのかも知れません。
しかし秀吉は良仁親王の皇位継承を見届けることなくこの世を去り、後陽成天皇は、秀吉の息のかかった良仁親王への皇位継承を拒みます。
後陽成天皇は、秀吉が亡くなったことで落ち目の豊臣家より、実質的に政権を握っていた家康を当主とする徳川家に乗り換える方が得策と考え、家康と結託して政仁親王を次期天皇としたのかもしれません。
また家康にしてみれば、秀吉が望んだ良仁親王が天皇となることを阻止し、家康の助力があって即位した後水尾天皇ならば、きっと徳川の意向に沿ってくれると考えたに違いありません。
そうした思惑があったかどうかの裏付けはありませんが、結果として第一皇子の良仁親王はを強制的に出家させられ、覚深入道親王(かくしん/ かくじん にゅうどうしんのう)となり、政仁親王は後水尾天皇となります。 さて、ここでの史実と推察を踏まえて再び方広寺大仏殿の再建についての話に戻りましょう。
再建された大仏殿の棟札の書には三井寺の長であった興意法親王(こういほうしんのう)が、例にない銘文を手掛け、,悪魔・怨敵 (おんてき) を下す意味合いのある調伏(ちょうぶく/ じょうぶく)を行ったとして蟄居(ちっきょ)を言い渡されます。
後にその疑いははれたとされていますが、そもそも調伏(ちょうぶく/ じょうぶく)を行ったという疑いが疑わしいですよね。
そのため弟の和仁親王が皇位につき、後陽成天皇となったのです。
本来は天皇となるはずだった、後陽成天皇の兄の子である興意法親王(こういほうしんのう)に、豊臣家は大仏殿の棟札の銘文を依頼し、家康が且元を介して後陽成天皇の第一皇子である覚深法親王を方広寺の供養の導師にとの推挙は受け入れられ、後水尾天皇(政仁親王)より大仏開眼法要を天台宗妙法院門跡の常胤法親王を指名する勅命が下されます。
また家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出しますが、18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とします。
ここでも家康の意向は殆ど通らなかったことになりますね。
7月末、
且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。
7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じたのです。
これが世に名高い方広寺鐘銘事件です。
ところで最も重要な梵鐘銘文については、
文英清韓が漢詩文に秀で、慶長19年(1614年)4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草しますが]、この銘文に不吉な語句があることを徳川家康は問題視し、大仏開眼供養の中止を求めた(方広寺鐘銘事件)。同年8月には且元に同行して駿府へ弁明に向かい、清韓自身は家康の諱を祝意として「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しているが、五山の僧の答申はいずれも当時の諱の扱いに対する常識や礼儀として問題視し、諱を避けなかったことについて五山僧から非難されますが、この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が以心崇伝らと画策して問題化させたとの通説もあるが、近年の研究では問題となって然るべきものと考えられているそうです。
だからドラマでは文英清韓が銘文の内容について徳川家康の文字を意図をもって使ったことについて説明するシーンが描かれたのですね。
ですが銘文が問題となって然るべき内容だったとしても、家康の豊臣家に対する攻撃を正当化できるものではないと思います。たまたま問題ととなって然るべき内容が梵鐘にあったというだけで、それをさせたのは、やはり家康だったと。
文英は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されますが、蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許されます。
側室というのは正式な妻(第一夫人)以外の人々のことだそうです。
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