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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:大阪城のフロント係りとして初登場した木村重成は美貌だけじゃない
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編 
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第41回放送『入場』では、歴女の方々に圧倒的な支持を得ている木村重成という武将がついに初登場しました。

大坂の陣で長宗我部宮内少輔(盛親)に属して戦いながらも生き残った毛利安左衛門は、後に人々にこう語ったそうです。
「戦場の事については、今時の壮士( 勇ましくて元気のいい男。壮年の男。)たちが畳の上で想像とは違って、簡単に高名手柄が成せるものではありません。
おおよそ戦場とは、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮として黒米(黒い色素の正体はポリフェノール「 アントシアニン 」で、苦くて不味く塩を入れて煮たという。)を食べ、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束(たけたば:を束ねて縄で縛ったもので、戦国時代以降、合戦において火縄銃が大量に使用されるようになると、従来の木の板による盾では防ぎきれなくなってきたため考案された。)の陰に武具を枕とし、霜露に晒(さら)されながら夜を明かすのが常です。

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竹束(たけたば)

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食(しんしょく)も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、何某(なにがし)は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危うい噂が、毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も安心できず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。
普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事だから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
そのため、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、
『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤(あや)しき業をしてでも、一生を過ごす方がいい。』という思いに誰しもとらわれていまうものである。」と。

そんな毛利安左衛門により伝えられる「木村重成(きむら・しげなり 1593 〜 1615)は、
丈高く、(背が高く、)
色あくまで白く、
々と際だち、
細い眼のまなじりが凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた。
と言われ、貴公子の如き長身の美男子であり、戦国時代の(男の中の男)であるばかりではなく、
「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」 と評されたそうです。
つまり、冷静さ・勇敢さに加え、仁愛にもあふれる美貌の戦国武将だったそうです。
 
そのため木村重成は、真田幸村,長宗我部盛親,後藤基次らと共に大坂方の四天王の一人に数えられています。
豊臣秀次老を務めた・木村重茲(木村)の子に生まれ(養嗣子で近江源氏佐々木の末裔とも言われる重成は、宮内卿局(右京太夫局)が豊臣秀頼となった事から、豊臣秀頼とは兄弟の間柄であったが、が「秀次事件」に連座して切腹しての所領を奪われた際には、重成も処分されかけますが、幼年である事や聡明さを豊臣秀吉が買っていた事等を理由に許され、豊臣秀頼に近して小姓を務め、元後は豊臣秀頼の全幅(ぜんぷく)の信頼をうけ、3千石を拝領して長門守と称するようになります。
色白の美丈夫で、立ち振る舞いや言動はやかで、礼儀作法を身につけ、粗暴なところがく、術に長けた武将に成長した重成は、徳川家康豊臣秀頼との対立路線を強めると、秀頼四天王の一人として軍勢を率いて大坂で初を飾り、佐竹義宣上杉景勝らの軍勢を破って戦功をあげ、徳川家康との講和の際は、豊臣秀吉の使者として徳川家康の本に乗り込んで講和の誓詞を徳川秀忠より受け取ります。

大坂夏のでも豊臣秀頼軍の主力として戦い、藤堂高虎井伊直孝らと戦った八尾・若江の戦い
に挑むにあたっては、
他の豊臣方の武将同様に木村重成も自らの散り際を見定め、前日にに香を焚きこませて出し、
「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至 」
との諌(いさ)めに対して、
「この程度の勝利はものの数ではない」
とまだ徳川家康徳川秀忠の首をとっていないとして十中十死の中に覚悟の突撃を行って討死します。
もしも生まれてくる時代が違ったならば、大輪のを咲かせることも出来たであろう若武者は、一時の花火の如き享年23歳の生涯を終えたのです。
ですが大坂城内でも随一のイケメンぶりと、気品あふれる優な物が優男感を助長していたのと初をすませていなかった事から、大坂冬の陣の当初は、豊臣秀頼団の中でも軽んじられ、時馬鹿にされることもあったと言われます。
しかしそういった侮辱に対して重成は一喜一憂することもなかったのですが、ある時坊主にまで馬鹿にされるようになり、果てにはとても言葉では表せない]様な侮辱をとある坊主より受けた時には、さすがに周囲の者はを抜いてり捨てるだろう思っていたのですが、そんな時でも、
本来ならばお前を無礼討ちにするべきなのだろうが、そうすると私も責任をとってを切らなければならない。は秀頼様のためにこそ死ぬべき時であり、お前ごときのために私は死ぬわけにはいかないのだ。 」
と言って、秀頼への忠義の為にはどんな侮辱にも耐える覚悟を笑顔と共に見せたことから、中から一置かれる存在になります。
術に長けた若武者として、真田信繁後藤基次長宗我部盛親ら歴戦の勇士達と共にと秀頼四天王に列せられた重成でしたが、まだ初もとげていない自身を顧みてか、歴戦の猛者である後藤基次に対して
「自分は若輩ゆえ戦闘の経験が乏しいので、どうか戦闘に際しては存分にお引きしお頼み申したい 」
と挨拶して後藤基次の感心を誘い、他の歴戦の四天王からも一目を置かれるようになります。
大坂冬の陣で念願の初陣を飾った重成は五千の兵を率いて、徳川家康側の佐竹義宣や大軍の敵兵と戦います。

かくして大阪方決死の野戦に、重成も散る訳ですが・・・・・。

大坂冬の陣の11月26日、大阪城の東北、大和川の北岸に位置する今福の堤(つつみ)に、東軍(=徳川方)が攻撃を仕掛けてきます。
この今福堤(別名:蒲生堤)は、徳川軍の侵入に備える要地で、大阪方はここに柵を設け、精兵を置いて守らせていました。
一方、家康と秀忠も軍議において城攻めの拠点となる陣場をこの堤防に設けようとして、佐竹義宣を今福堤攻撃の任に当たらせます。
かくして、この今福堤の防衛戦が重成の初陣となります

まず、佐竹軍はその臣・渋江内膳政光(;しぶえ ないぜん まさみつ)ら6,7千騎らが今福の柵を急襲して、守備兵を逐い、そこに手勢を残して引き返し、陣場の普請(=工事の意味)に取りかかった。
ところが午後2時頃、これをかねてから警戒していた城中から3000余騎が突撃し、鉄砲を撃ちならしながら怒濤のごとく押し寄せてきます。
この部隊を率いていたのが、西軍において武の誉れ高い後藤又兵衛と、若武者・木村重成でした。
これに対して、兵数においては上回る佐竹軍も矢玉にて猛烈に反撃し、激戦となります。
霰のごとく飛来する弾丸の中、敵勢に肉薄する重成に、一族の木村半四郎が、
「御身はこれを持ち下され」と盾を差し出しますが、重成はそれを一度手に取ったがすぐに放り捨てて言い放ちます。
「盾は矢玉を逃れようと、運命をのがるる事はできぬ。」
所詮(しょせん)死ぬ奴は死ぬ、と突っぱねた重成は、盾を投げ捨ててさらに突撃を続け、敵方の渋江内膳と一騎打ちに至り、遂にはその首を取るという武功を上げます。
 渋江の首を取った事を契機に、佐竹勢は退いていきますが、家来の大井何右衛門の姿が見あたらない事に気付いた重成は、大胆にも単騎で戦場をあちこち駆けめぐったすえ、倒れていた手負いの大井を発見。
それを見て重成は馬を飛び降り、抱きかかえて後退しようとしたところに、4,5騎の敵が怒号をあげて迫ってきます。
これを見て大井は「自分を捨ててお引き下され」と願いますが、
重成は「敵が出たからと言って公を放り棄てて戻るくらいなら、初めから来ないだろう。 」
といって自慢の槍で敵兵を屠らんとした際に味方の兵が現れた為、味方に大井を運ばせた重成は、
それを承知せずに 自ら槍をしごいて相手に向かって突撃、殿軍を務めます。
その後、この重成主従を救うべく30余騎が駆けつけたため、重成・大井ともども無事城へと退却する事に成功します。
結局この戦で徳川軍は、柵は奪ったものの渋江などの名のある者を多数失い、豊臣軍を威圧する事はできませんでした。

これにより味方のみならず敵からも
「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」との賞賛をうけ、豊臣秀頼からも
日本無双の勇士である 」
として感状と政宗の脇差を下賜したが、重成は、
「この度の戦功は自分一人の働きによるものではありません。」
といって脇差を返上し、
「感状は他家へ奉公する時に経歴の飾りとなりますが、私は二君に使える心が内ので無用のものです。 」
と言って感状も返上し、豊臣秀頼への忠誠心と戦う事に対する己の信念を見せました。

 このエピソードからは、重成のこの戦に対する信念と、秀頼に対する忠誠心が見えます。

こうした重成の奮戦もあり、大坂冬の陣は豊臣と徳川の講和交渉が設けられ、休戦状態に入りますが、家康は講和条件を反故(ほご)にして大阪城の外濠のみならず内堀までも埋めたことにより、翌慶長20(1615)年、再び戦いの火ぶたは切られます。

大坂夏の陣です。
重成が最後となった戦いに出陣したのは、同年の5月六日の午前2時のことです。
重成率いる手勢4700が城の東南東二里に位置する若江に着陣したのが午前5時。
そこで重成は兵を3つに分けます。 右翼は八尾で長宗我部の隊に対する東軍の藤堂軍に備え、左翼は奈良街道のからの軍勢に備え、本隊は若江の南端に駐屯します。
やがて押し出してきた藤堂軍を木村隊の右翼が破って押し返します。
兵達はさらに追撃しようとしますが、重成は深追いを避けて退却を命令。
このように若武者特有の「功に焦る事による冷静さの失い」は、重成には感じられません。
しかし、その心中は常に憤り並々ならぬものがあったのでしょう。
重成が一時退却命じたときに、弓隊長の飯島某(いいじまなにがし)が、
「すでに、かく軍功を立てたからには即刻、城に帰られては」と進言。しかし重成
「俺はまだ両将軍の首を取ってはおらぬ。これしきの勝利はもののかずではい」として虚空を睨んだそうです。
このエピソードから血染めの美将〜「木村重成」〜の管理人は、3つの事柄を推測しています。
 1つは、もはや将軍の首を取らぬ限りは万が一にも戦況は好転しないという大阪方の状況を表す意。
2つ目は、一つの小さい勝利に一喜一憂しない重成の器の大きさ。
しかし重要なのは3つ目。 それは両将軍への並々ならぬ「怒り」ではないかと。
なぜならば、過ぐる冬の陣の後、豊臣方の正史として講和の誓詞を岡山の秀忠の陣に受け取りにいった使者は、他ならぬ重成であったからです。
岡山の秀忠の陣にいった重成のその立居振舞は堂々としたもので、居合わせた東軍諸将をも感嘆させたというが、
しかしその後徳川方はその誓詞を反故(ほご)にします。
その時、豊臣方の正史として立派に勤めを果たしたと思っていた重成の心境はいかなるものだったでしょう?
約束を虚仮(こけ)にしたという事は、引いてはその勤めを果たした自分をも虚仮にされてたという思いと共に、その卑怯な徳川方のやり口に、まだ若い重成の胸は怒りではち切れんばかりだったはず、ここに至って重成の心境には、「両将軍の首を取るか、さもなくば己の首が取られるか」という覚悟にまで至ったのでしょう。
それを物語るエピソードがいくつか有ります。
まず、重成は5月初めから食事をかなり制限してきていました。
その理由は、「敵に討ち取られたとき、己の屍の臓腑が見苦しくないように」と心がけたため。
また出陣の前日(5月5日)には、入浴し、髪を入念に洗わせ、兜には香を焚き(読:たき)込めさせます。
これはあらかじめ、戦後の首実検を考えに入れての事でしょう。
悲惨な戦状において、いや、だからこそのこの奥ゆかしさは徳川軍武士の心までも打ったといいます。
そして、まだ新婚5ヶ月目の新妻と別れの盃をかわして、重成は戦場へと旅だったのです。
さて、戦の場に戻りますが、藤堂軍を打ち破るも深追いせず、若江にて駐屯していた重成軍でしたが、正午近く、その若江の地に忽然と「赤色のかたまり」が出現します。
徳川方の精鋭、井伊直孝率いる「赤備え」です。
かくして若江の地は再び激戦となります。
まず赤備えの軍勢によって、木村隊の後部隊が崩され、
これによって木村軍は崩れたち、「引き申されぇ」と重成自らが率いる隊の家臣が引き戻そうとする中、重成はそれを振り切って、ひたすら前へ前へ・・・と突き進みます。
その決死の突撃によって、井伊隊にも多くの負傷者が出ますが、最後は重成が壮烈な討ち死にを遂げてしまいます。
死地は西郡の堤の上。 井伊の家老・庵原助右衛門朝政の十文字槍に(ほろ)をかけられた上で引き倒され、たちまち手勢2、3人にその身を討たのです。
その首は安藤長三郎重勝という武将がもらい受けたそうです。
翌日、しかるべき場で家康が重成の首を改めると、頭髪からえもいわれぬ香が匂ったといいます。

 伝えられる後日談によれば、重成の首を貰い受けた安藤長三郎の子孫が、重成の150回忌(=宝暦14年=1764年)を機に、その菩提を弔うために戦死の地(現、大阪府八尾市幸町6丁目)に墓碑を建てたたのだそうです。
また、かつて
「血染めの薄(すすき)というものが。彦根の佐和山神社には納められていたそうです。
 それは重成の死場所の堤上に風になびいていた、彼の鮮血にまみれた薄(すすき)を掘り取って、彦根城内に移植したのを、明治の初めに神社に移したものでした。
重成を討ち取った部隊の将:井伊直孝は「鬼掃部(おにかもん」と言われた猛将でしたが、重成の勇将ぶりとその見事な最期に感じ入った直により、その居城彦根城には、重成の鮮血にまみれた薄(ススキ)を掘りあげて移植してあったのです。
しかし残念ながら薄は現存していないようです。

 佐和山神社も合祀(2つ以上の神を合わせ祭る事)された今では、血染めの薄も現存していないそうですが、重成の首塚は彦根市内の宗安寺に現存しているそうです。

 戦死の当時は、重成が生きて讃岐国に逃れたという風聞も流れたそうですが、その若すぎる死を惜しんだ者の作った虚説らしいのです。

このように木村重成は、最後まで非の打ち所がない武将でしが、重成に係るエピソードはまだあります。

それは豊臣方の木村重成と真田信繁に対する徳川方の信之の息子たちに係るエピソードです。

大坂冬の陣の際、木村重成の陣へと六文銭の旗印を立てた軍勢が攻めかかってきました。
軍勢を確認した重成が同じ六文銭が旗印の真田信繁に会って、
「私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋は六文銭です。その中で若い武者二騎がっ先に進んできて炮をものともせず、兜を傾けて柵に取り付いていますがどなたの子でしょうか。 」
と言ったところ真田信繁は、
  • 六文銭は兄の真田信之のもの
  • 若武者は兄の長男の真田信吉と次男の真田信政で、自分の甥である事
を告げて、
「彼らを分の人に命じて討ち取って下さい。そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、これに過ぎるものはありません。 」
と答えますが、重成は、
一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。必ず和になりますから、めでたくご対面なさって下さい。 」
真田信繁の心中を察して、真田信吉と真田信政をで狙撃しないように兵に命じたのです。

大坂闘の末、豊臣秀頼ら強硬が「講和なんかしたら堀を埋められて篭できなくなる」と反対する中、和淀殿大野治長・織田有楽斎らが家康と講和するとなった際に、重成秀頼の名代として家康を訪れたのです。

徳川譜代の臣がずらりと並ぶ中を礼もせずに、ただ家康のみを見て静かに歩いて近づくと、徳川方の将兵からは「若造のくせに生意気だ」とか「最近の若いのは礼儀も知らんのか」といった罵詈雑言が飛び交いますが、重成は動じません
そして、家康の血判が押された誓を一通り見た重成は、
「血判の血が薄くてよく見えませんが? 」
と言い、家康も「年をとって血が薄くなったのであろう」と再度血判を押し直したのです。
秀頼の名代として家康によって血判を押させ直された講和の誓紙を確認して丁重に礼を重ね、徳川家康の陣を出て行こうとした際、罵詈雑言をあびせていた家康の家臣に向かって
今日君、秀頼の名代として参りましたので、先ほどはに失礼致しました。なにとぞお許し下さい 」
と侘びの言葉を述べたと言います。
主君の名代として君の名に傷がつくような事をせぬようにしていた事を感じ取った家康の家臣達は、罵詈雑言をあびせていた愚挙が恥ずかしくなったのか返事する者もなかったのですが、重成は丁寧な会釈の後に陣を立ち去ります。
罵詈雑言をあびせていた者達も逆に「立派なものだ」と賞賛し始めた中で家康は、
「秀頼はよい臣を持っている 」
と、罵詈雑言をあびせた徳川の臣と、君の名代として君命を辱めずに役割をまっとうした重成較して溜息をついたという逸話も今日に伝わりますが、この話は後年の創作話らしい。

その事は大坂夏の陣での八尾・若江の戦いにおいて長宗我部盛親に迫る藤堂高虎の軍勢を打ち破って押し返す事に成功した際に、
「 俺はまだ両将軍の首を取ってはおらぬ。これしきの勝利はもののかずではい」と戦功におごらぬ姿勢で戦い続けた重成の姿に現れます。
大坂冬の陣で取り交わした誓紙を家康に握り潰された重成は、
誓紙を取り交わすという最上級の条約締結まで行ったのにもかかわらず、これを一方的に反故にするという家康とその嫡男:秀忠への憤慨を露にして戦ったのです。

しかし大坂城の掘を埋められて篭城が叶わぬ大坂方は風前の灯火の状況であり、重成の部隊にも、運命を決する相手となる井伊直孝の軍が迫っていました。
他の大坂方の武将達がそうであったようにまだ二十台前半の若武者である重成も自らの散り際を考え、1週間程前より食事を制限していたのです。
食が進まぬ事を憂いた妻の青柳
「この度は落城も近いと取り沙汰されていますが、それでお食事が進まないのですか? 」
と聞いたところ重成は、 
「昔、後三年の役に瓜割四郎という者がいたが、臆病で朝の食事が喉を通らず、敵で首を矢で射切られたところ、傷口から食事が出てきて恥をさらしたという。私もこの戦いで敵に首を取られるであろうから、見苦しくないように心掛けて食事を慎んでいるのだ。 」
と答えたと言われます。
時18歳とも19歳とも言われた妻の青柳は、夫である重成の思いをうけとめ、最期の戦いに向かう夫が入浴して髪を洗って身を清江口の曲舞「紅花春の朝」を静かに謡い、余念なく小鼓を打つ
合間に夫の愛用の兜に香を炊き込めました。
そして妻の思いを受けとめた重成は、兜の緒の端を切り落として討死を覚悟した状態で井伊直孝の軍へと突撃し、一時は形成を逆転させる武勇を発揮したものの、ついには満身創痍の中で討ち取られ、戦場に散ります。
その後、家康が重成の首実験をした際に、兜をとった髪から香の香りが漂った事から、
5月の初めだというのに、首にいささかの臭気もなく、香を焚きこめたのは勇士のよき嗜みである。
もここに来てその薫りを嗅いでみよ。また、兜の緒の端を切り落としてあるのは討死にを覚悟した拠、誠に天晴れな勇将である。 」
木村重成の戦いに挑む姿勢に感心して褒め称えと言われます。

木村重成にまつわるお話はまだあります。
それは重成の妻:青柳の涙を誘う最後を伝えるお話です。

大蔵卿局の姪の青柳は、偶然見かけた重成の美しい姿に一目で心奪われ、
「恋侘て 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀といふ人かな 」
との歌でその思いを伝えます。
この歌に対して重成
「冬枯の 柳は人の 心をも 春待てこそ 結ひ留むらめ 」
と返し、二人は大坂夏の陣の年の初めに晴れて夫婦となります。
重成が大坂夏の陣で戦死した際、青柳のお腹には重成との愛の結晶を宿っていました。
大阪城が落城後も匿(かくま)われていた青柳は、無事に男児を出産しますが、後に尼となった青柳は、重成の一周忌を終えた後に自害して20年の生涯を閉じたのです。

ところで『NHK大河ドラマ 真田丸』で木村重成役を演じる白石隼也さんは、「仮面ライダーウィザード」に主演していたイケメンです。
「目元涼しく・・・・」とはこのような青年の事を言うのでしょうね。
ですが木村重成の「色あくまで白く」と伝えられるイメージにピッタリかと言うと、ちょっと疑問符が残ります。
ですがそんな絵に描いたような美男子がそうそう見つかる訳もありませんよね。
ケチをつけたようで恐縮ですが、ファンの皆さんには笑って許して頂ければと思います。

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白石隼也さん演じる木村重成

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『NHK大河ドラマ 真田丸』で木村重成役を演じる白石隼也さんは、
「仮面ライダーウィザード」に主演していた方です。

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