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〜真田丸:塙 団右衛門は加藤嘉明のイケズに合いながらも大坂城へ入城し〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
塙 団右衛門(ばん だんえもん)こと塙 直之(ばん なおゆき)は、大坂冬の陣の陣のあった1614年には既に47歳になっていたようですが、後の世になってから難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名で広く知られるようになった武将です。
ちなみに見出しのイケズとは、関西弁で嫌がらせの意味です。
『NHK大河ドラマ 真田丸』第42回放送『味方』では、大阪城における豊臣秀頼が同席する中、初めての評定において、大野治長より真田幸村を徳川との決戦における総大将とすることの是非を議論しますが、後藤又兵衛はこれを拒否します。
そんな軍議の直前、大広間で秀頼のお出ましを待つ多数の武将たちが居並ぶ中、小手伸也(こてしんや)さん演じる武将が幸村に近づき、「真田左衛門助殿でございますか?それがし、加藤嘉明(かとうよしあき)様のところで、鉄砲大将を務めておりました塙団右衛門でござる。以後、お見知りおきのほどを。剣術の腕前はいま一つながら、戦の時は欠かせせぬ男でございます。では。」と語り、『塙 団右衛門参上』と書かれた木札を現代の名刺のようにして手渡していましたよね。
このような登場から見て、今後この塙 団右衛門が戦場においても活躍の場面が少なからず描かれるのではないかと思われます。
では、いったい塙 団右衛門とはどのような武将なのでしょうか?
生国は尾張・遠江・下総ともいわれる塙 団右衛門ですが、ハッキリ言って出自どころか経歴も不明だそうです。
少年の頃から山野を駆け巡る屈強の若者で15〜16の頃には大人以上の体格だったという。織田信長・豊臣秀吉に仕えたが、酒癖の悪さと喧嘩癖で放逐され、嘉明に流れ着いた説。川井喜介と名乗って、本多忠政に3千石で仕えて出奔した説。須田次郎左衛門と名乗って、大須賀忠政(徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる榊原康政の長男としてうまれるが、同じく徳川氏の重臣だった外祖父大須賀康高に嗣子がなかったことから、康高の死後、その養子となって大須賀氏を継いだ。)に仕えて出奔、時雨左之介と改名した後に加藤嘉明に1千石(一説に350石)で仕えて出奔した説。千葉氏(桓武平氏良文流)の家臣から北条綱成に仕えてから加藤家に仕えた説などがあるものの定かではありません。
塙 団右衛門が加藤家に仕官した時期は、小田原合戦の後から朝鮮出兵の以前の天正18年から天正20年の間と推測されるとか。
朝鮮の役においてまだ伴直之と名乗っていた頃は、まだ加藤嘉明の歩小姓でしたが、嘉明の近習からの推薦もあって加藤家の旗印を任されます。
直之(壇右衛門)はその加藤家の青い絹四尺半の真ん中に日の丸を描いた目立つ旗印を背負って戦場を駆け巡り、漆川梁海戦では敵の番船三艘を8名で乗っ取るという手柄を上げるなど、度々武功をあげて活躍し、350石の知行を得ていました。
その後も知行1000石の鉄砲大将に出世し、その際に地位にふさわしい塙団右衛門直之と改名したとされます。
朝鮮出兵による武功で関ヶ原の戦いでは2百名を率いる鉄砲大将に抜擢されますが、鉄砲大将でありながら戦闘開始と同時に配下の足軽を捨て置いて自ら槍を手に前線に繰り出し、敵中に突入して奮闘してしまいます。結果、加藤家の鉄砲隊は戦場で大した活躍ができず、主君である嘉明の勘気を被り、
「将帥の職を勤め得べからず(=お前には一軍の将にあらず。)」と叱責されます。
この叱責に憤慨した団右衛門は、
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」との漢詩を、書院の大床に張りつけると、禄を捨てて出奔してしまった。
というのが一番有力な説ですが、
、嘉明が罪人の捕殺を塙団右衛門と藪与左衛門の二人に命じたが、与左衛門が任務を忠実に果たしたのに対して、団右衛門は寒い日であったので斬り合いの最中に悠然と火にあたって暖を取っていた。検分した嘉明は首級を挙げた与左衛門に白銀10枚を与え、団右衛門は豪胆を賞して感状を与えただけだった。後に行賞された際に、与左衛門の知行は1300石となったが、団右衛門の知行は1000石に留まり、これに不満を持った団右衛門は出奔したという異説もあるそうです。
いずれにせよ団右衛門の行いに激怒した嘉明は、奉公構(大名が、出奔した家臣又は改易した者について、他家が召抱えないように釘を刺す回状)を出して、諸侯が団右衛門を雇うのを妨害し続けます。
しかし世の中は棄てる神あれば拾う神ありです。奉公構という嘉明の嫌がらせにもかかわらず、小早川秀秋は嘉明よりも格上だったために嘉明に遠慮することなく団右衛門を1000石の知行で鉄砲大将として召し抱えますが、秀秋は関ケ原の戦いで豊臣家を裏切り、『NHK大河ドラマ 真田丸』のナレーションなどでも語られたように、慶長7年(1602年)10月、秀秋の死去により小早川家は断絶となり、団右衛門は浪人となります。
この様な経緯から任官を諦めて、妙心寺の大龍和尚のもとに寄宿し、一時期は剃髪して仏門に入って「鉄牛」を称しますが、刀である脇差しを帯びた姿で托鉢をして檀家の不興を買ってしまいます。
山縣三郎右衛門なるものを家来としてまずは近江路へと進みますが、関東方(徳川方)は多勢で功をあげても禄は期待できないが豊臣方ならば大功上げれば大名にもなれると二人は相談し、引き返して豊臣方に参加することを決心。
浪人衆の1人として大将大野治房。(ドラマの中で幸村に眼を飛ばしていたあの大野治長の弟)の組に預けられ、騎馬武者10騎と足軽10人を率いる物見役となり、戦いに先立ち、堺から撤退する新宮行朝を援護。
そして一躍名を挙げたのは本町橋の夜戦、徳川からの和議が迫った頃、志願して夜襲の許可を得た団右衛門は、11月17日、米田監物と共に蜂須賀至鎮の陣に夜襲をし、その家臣中村右近を討ち取るなど戦果をあげます。
「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせたそうです。
(一言:名刺のような木札は、ドラマで描かれたように『塙 団右衛門参上』と書かれていたのでもなく、ましてや大阪城で幸村に手渡したのでもなかったのです。)
一見するとこの木札をばら撒くという行為は、武士にあるまじき売名行為と思われますが、これはひとえに奉公構という嫌がらせをした嘉明に対して、自分には大将としての才覚もあるのだということを示すためだったと言われます。
一説には、田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち取られたとされ、
異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも言われるそうです。
団右衛門の僚友の淡輪重政もまた、団右衛門の戦死を見て敵中に斬り込み、討死ししてしまいます。
この配下の二人が討死した時、大将の大野治房は願泉寺で食事をとっており、敗報を聞いて、慌てて退却したと言われます。
団右衛門の死後、大坂方では生還した岡部大学が、塙 団右衛門を見殺しにしたとの批判が上がり、岡部は戦闘時は奮戦したものの退いたことを恥、一時切腹を覚悟し、落城の後には名を変えて隠棲してしまいます。
その生き様を見る限り、ただの戦バカのように思われがちですが、加藤家からの出奔の際には、嘉明宛に皮肉の聞いた漢詩 を残しており、軽輩の身ではあったものの、当時の武将にしては珍しく詩書に通じた文才の持ち主だったことを覚えていてほしいと思います。
『NHK大河ドラマ 真田丸』第42回放送『味方』での塙 団右衛門による幸村への売り込みを見る限り、大坂冬の陣では幸村の配下で団右衛門は活躍し、その後の夏の陣にて大野治房と共に出陣して討死となるのでしょうね。たぶん。
ところで団衛門役を演じた小手伸也さん、いい味出していましたよね。
小手伸也さんは1973年生まれの現在42歳。
木札を幸村に手渡そうとする塙 団右衛門
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