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〜真田丸:有楽斎は豊臣の穏健派ではなく虎の威を借るのが得意な卑怯者?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』では第42回放送『味方』から淀殿の相談役として織田有楽斎という人物が登場しました。
この有楽斎、ドラマ上では大阪城での軍議などにおいて、豊臣の忠臣でもないのに、大野治長や木村重成らを差し置いて、傭兵として集まった武将(真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親など)らに対して、淀殿からの信頼を良い事に、おだてたり、なだめたり、脅したりと目障りな言動を繰り返しています。
画面を通して上記のような有楽斎の姿を見ていると、「何なんだこのウザい坊主は?」と思ってしまいます。
現代における織田有楽斎に対する見方は、関ケ原の戦い以後の豊臣方の中にあって、徳川との対立を回避しようとする穏健派と評せられています。
つまり今で言うところの平和主義者ですね。
ですが、私の有楽斎に対する見方はそうではありません。
一言で言えば、虎の威を借るのが得意な卑怯者ではないかと。
そして『NHK大河ドラマ 真田丸』を見る限り、三谷幸喜さんも私と同じ視点に立って織田有楽斎を描いている気がします。
私が有楽斎をそう評することの是非を皆さんに判断していただくには、やはり有楽斎がどういう人物なのかをご紹介する必要があるでしょう。
皆さんは以下の文章に誘導されることなく、客観的事実のみをくみ取って判断して下さい。
織田長益 - Wikipediaによれば、織田有楽斎は、
織田信秀の十一男、つまり織田信長の年の離れた(13歳年下)弟で、前半生の事歴はあまりわかっていないそうです。
(一言:つまり信長を筆頭として第7位の地位にあったということですね。)
(一言:この年には織田家中で信包を抜いて第6位になっていたということでしょう。)
1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である甲州征伐では、木曽勢に助力して鳥居峠を攻略。降伏した深志城の受け取り役を務めています。
(一言:有楽斎に虎の威を借るのが得意なと称しうるような行動の始まりです。)
(一言:これも虎の威を借るのが得意なと称しうる行動と解釈できます。)
この本能寺の変での有楽斎の行動は、『義残後覚』・『明良洪範』など後世の編纂書では本能寺の変の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされ、その後の逃亡劇を、京の民衆たちに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られたといいます。
(一言:つまり有楽斎は、主君に対して切腹を薦めながら、自らは殉死することなく逃亡し、保身に走ったというのです。これが史実なら、虎の威を借るのが得意な卑怯者以外の評価があるでしょうか?)
変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務めます。
(一言:これは前の主君である信忠の死を前にして逃亡しながら、恥じることなく次なる主君として信雄に仕えたと解釈できます。)
(一言:これは信雄と家康の威を借りて滝川一益を降伏させたと解釈できます。)
戦後家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。
(一言:これは家康の威を借りたと言えます。)
また、佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいう。
(一言:有楽斎は信長の弟、淀殿は信長の妹であるお市の娘、だから有楽斎から見て淀殿は姪というこのになります。)
秀吉死後、家康と前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護している。
(一言:これは徳川が豊臣家に対して優位性を見せるようになると、有楽斎は徳川に接近したということです。)
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、有楽斎の長男・長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦。寡兵ながら小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦して戦闘し、一時は本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退しています。
(一言:関ケ原の戦いにおいて有楽斎は長男・長孝とともに徳川方として武功をあげて徳川に対しての覚えを良くしたのです。この時の有楽斎は、穏健派でも平和主義者でもないじゃないですか。)
(一言:長男の長孝は、正室の子ではないので嫡子とはならなかったものの、関ケ原の戦いでの武功により、有楽斎からの分家、つまり独立家として徳川より許されたのです。)
そしてそして、『NHK大河ドラマ 真田丸』で描かれているように、有楽斎は関ヶ原の戦い後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐しました。
(一言:ここからは淀殿の威を借りたということに。)
一方、嫡男の頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立しています。
(一言:豊臣家の命運が危ぶまれると、家康・秀忠にとり入って徳川方につくべく動いたのでしょう。)
大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、有楽斎本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年76。
有楽斎が堺占拠の際捕らえられた今井宗薫を赦すなど穏健的行動をとっていたのに対し、嫡男頼長は片桐且元殺害を計画し信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなど、過激的行動を幕府側にも警戒されており、有楽斎とも対立します。
(一言:有楽斎の嫡男 頼長は、大坂の陣における豊臣方の総大将に織田信雄を担ぎあげることで豊臣家内での自身の地位を上げようとした野心家だったのでしょう。)
また頼長は冬の陣では病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔しています。
(一言:ここで有楽斎の嫡男 頼長は、自身の野心をむき出しに。)
その後有楽斎は大坂城退去しますが、これは嫡男:頼長の奇行も原因のひとつとされるそうです。
以上のように今回のページでは、織田有楽斎について織田長益 - Wikipediaの記述に私的な独断と偏見に満ちた一言を添えてご紹介しましたが、
皆さんは有楽斎の行動を客観的に見て、どう評価しますか?
ちなみに東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来し、茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたとの説があるそうです。
かつて大阪にも、有楽斎が居住したといわれる場所に有楽町(うらくちょう)が存在した。 現在の大阪市西成区天下茶屋3丁目の一部と岸里東1丁目の一部で、天下茶屋駅と聖天坂駅の中間に位置する区域は、有楽町が正式な住居表示上の町名であった。 太平洋戦争後の度重なる区画整理などによって1973年に消滅。 なお現在も「有楽」の二字を冠したマンションなどが点在するんですって。
はてさて織田有楽斎は、歴史上の偉人か?はたまた虎の威を借るのが得意な卑怯者なのか?
真実はいかに?
井上順さん演じる織田有楽斎
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