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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:初(常高院)は姉と妹の対立阻止に奔走するも、 国松を救えず〜
   サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編         
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第43回放送『軍議』では、淀殿の妹:初(常高院)が登場しました。

一般的に初(常高院)という女性の認知度は低く、母である市や、淀殿(茶々)や江(崇源院)は知っていても、初(常高院)については知らないという人も多いのかもしれません。
ですが、歴史にもたらした影響力においては遜色のない存在でした。

第43回放送『軍議』の中で淀殿と初(常高院)は以下のような会話を交わします。
淀殿:「今、この城に浪人たちが10万人いるのですよ。」
常高院:「10万人も?」
淀殿:「真田左衛門助も戻って来てくれましたし。」
常高院:「姉上の元気なお声を聞いて、安心しました。」
淀殿:「この戦(いくさ)、必ず勝ちます。」
そんな姉の言葉を聞いた常高院は、なにやら浮かぬ顔です。
それもそのはずです。敵方の二代将軍:徳川秀忠の妻:江は、淀殿の一番下の妹であり、初(常高院)にとっても妹、つまり淀殿(茶々)・初(常高院)・江(崇源院)は俗に浅井三姉妹と呼ばれる姉妹なのです。
初(常高院)から見れば、徳川と豊臣のどちらかが勝つということは、姉と妹のどちらかが負けるということなのです。
伝えられるところによれば、初(常高院)は幼い頃より淀殿(茶々)と江(崇源院)のどちらとも仲が良かったと言われます。
そんな姉と妹の嫁いだ家どうしが戦い、一方が負けると言う事を喜べるはずがありません。

戦国時代を少し知る方ならご存知でしょうが、浅井三姉妹の母:市が兄である織田信長の命令で近江国(現在の滋賀県)の浅井長政に嫁ぎ、浅井家の姫として生まれた三姉妹は、やがて長政と信長が対立、小谷城の戦い小谷城が落城して長政は切腹、市と三姉妹は、織田一族出身の武将である藤掛永勝により救出され織田家に預けられます。
信長の死後、清洲会議がきっかけで羽柴秀吉と対立した織田家の筆頭家老であった柴田勝家と市が再婚したのに従い北ノ庄城に入りますが、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて北ノ庄城が落城します。
勝家と市は自害し、三姉妹は秀吉に預けられたというのが一般的な説ですが、三姉妹を保護したのは秀吉ではなく、天下統一後に秀吉の臣下となった織田信雄という説もあるそうです。

初(常高院)が京極高次の正室として嫁いだ京極家は、室町幕府侍所の長官を世襲した四職の家門であり、出雲国隠岐国飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家でした。
そして京極家はまた北近江の元の領主であり、浅井家の主筋でもあったのです。
つまり初は、家柄から言えば分家筋から本家に嫁ぐという栄達の婚儀だったことから、三姉妹の中で最も格上の武家に嫁いだとも言えますが、当時の京極家は下克上により分家の浅井家や、後には羽柴家の援助を受けていたそうです。
高次の母(京極マリア)は浅井長政の姉であり、高次と初は従兄妹の間柄で、血筋の近い者同士の縁組でした。
一言:それでもあえて血筋の近い者同士の縁組を選んだのは、つまり京極家は分家筋の浅井家からのより多くの援助を受けるための結婚だったと言えるのでしょう。)
夫:高次は慶長5年(1600年)、秀吉の死後に五奉行の一人、石田三成五大老の筆頭・徳川家康が対立し、石田三成ら(西軍)が挙兵すると京極高次は三成側に就くと思わせ、関ヶ原の戦い大津城に籠城して東軍に転じます(大津城の戦い)。
その戦いにおいて夫:高次は、落城する前に開城してしまいますが、命に別状はありませんでした。結果として高次は西軍に敗北しますが、その足止めをした功績で若狭一国(若狭小浜8万5000石)を与えられ小浜藩主となります。

このように初の夫:京極高次は豊臣方から徳川方へと移りますが、初は高次に先立たれた後、高次との間に子がなかったために、徳川方となった京極家の嫡男の母として家に縛られることもなく、結果的に初は出家して常高院と名乗り、豊臣方でも徳川方でもない中立的な立場になります。
その中立的な立場から、妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とし、側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)、また詳細不明の養子1名を始めとした血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされ、
その反面で大坂の陣の前には、豊臣家の姉:淀殿の相談役として大阪城に入城するなどして、姉と妹の決定的な対立を阻止するためにも、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介にに奔走します。

夫を支え、衰退した京極家を大名家として再興させ、すでに大坂城が落城するまでに三姉妹の中で一番多くの落城(小谷城、北ノ庄城、大津城)を経験している初は、他の姉妹以上に多くの悲しみを経験していたと言えるでしょう。
それゆえ豊臣と徳川=姉の家と妹の家の対決を前にして、もうこれ以上の悲しみは何としても避けたかったのでしょう。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ、両家の和議に尽力しました。
しかし初の奔走も空しく、家康は何としても豊臣を滅ぼす決意に変わりはなかったどころか、初の和議奔走を良い事に、休戦状態となるや大阪城の堀を埋め尽くした上で再び豊臣家に対してイチャモンをつけて戦端を開き、豊臣家を滅ぼしたのです。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると秀頼の娘、後の天秀尼の助命を家康に嘆願したとも言われます。
姉である淀殿とその子:秀頼の命は救えなかったものの、この初の天秀尼の助命の働きにより天秀尼の方は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命されます。
しかし、天秀尼の年子の兄:国松は大坂夏の陣直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたと言われます。
豊臣の後継となりえる男子を、家康は決して許さなかったのでしょう。

初はその後も妹・江とよく会っていました。江が亡くなる少し前に初(常高院)は江戸で再会し、対談したといいます。
思うに初は江に対し、「姉の死は仕方ないとしても、なぜその孫の:国松の命まで酷い仕打ちで奪われることを阻止出来なかったのですか?あなたはこの後命を奪われた姉の一族に対して、生涯を通して償うべきです。」と訴えた時期があったのではないかと私は思います。
しかし江が亡くなる少し前、初は「あなたはもうすぐ姉や秀頼、国松にも会いにゆくのね、あなたが素直な気持ちで姉達に一言詫びれば、姉はきっと優しく許してくれますよ。」と言ったのではないかと。

家族への深い深い愛を持つが故に、底知れぬ悲しみに捕らわれた初は、大阪城炎上から29年後の寛永10年(1633年)、京極忠高の江戸屋敷(現・東京都港区虎ノ門)で死去します。
恐らく初は、戦国時代という血塗られた時代に失った多くの肉親の魂に対して、冥福を祈り続けた末に、享年64歳で命を閉じたのでしょう。

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はいだしょうこさん演じる初(常高院)

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