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〜真田丸:初こと(常高院)はキリシタンだったらしい。ではなぜそうなったの?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前ページでは淀殿の妹:初(常高院)についてご紹介しましたが、ここでは初がキリシタンだったというお話です。
常高院 - Wikipediaの記述の中には以下のような記述があります。
「文禄2年(1593年)、高次の侍女於崎が忠高を懐妊すると、初(常高院)は嫉妬し殺害を企てた。高次の家臣・磯野信高は、忠高を預かって浪人となり、初の機嫌が和らぐ文禄4年(1595年)まで幼い忠高をかくまったという。松江歴史館学芸員・西島太郎が、『高島町史』編纂の過程で発見された高次の書状や「磯野家由緒書」を調べた結果として、2011年に同館の研究要綱で発表した。に改宗した。墓石をはじめ、小浜地方には遺物が多く残されている。
高次の家臣・磯野信高は、忠高を預かって浪人となり、初の機嫌が和らぐ文禄4年(1595年)まで幼い忠高をかくまったという。松江歴史館学芸員・西島太郎が、『高島町史』編纂の過程で発見された高次の書状や「磯野家由緒書」を調べた結果として、2011年に同館の研究要綱で発表した。」
高次との間に子のなかった初にとって、次女に高次の子が生まれたことが許せなかった。だから殺害しようとした。その高次に対する愛ゆえに。
高次にしてみれば、信長の妹の子をむかえたことで城主にも成りえた事を妬む者からは、「女のお尻で輝く大名」と揶揄(やゆ)され、蛍大名と言われていました。高次が侍女に手をつけたのは、そうしたことへの反感があってのことだったのかもしれません。
ですが問題はそこではありません。常高院 - Wikipediaの記述の文中には、前後の脈略もなく唐突に、「常高院は後に、切支丹(キリスト教徒)に改宗した。墓石をはじめ、小浜地方には遺物が多く残されている。」という記述が現れています。
これでは疑問が残ります。
なぜ初(常高院)はキリシタンになったのか?という疑問が。
そこで改めて調べて見ると、京極マリア(浅井長政の姉)の信仰の軌跡の記述から初(常高院)がキリシタンになったのは以下のような理由があったことがわかりました。
前回のページでも記したように、初(常高院)の生まれた浅井家は、京極家の分家筋でした。
浅井長政と信長の妹:市の間に生まれた子の初(常高院)は本家筋の京極家に嫁ぎ、
そして初(常高院)の夫となった京極高次の母は京極マリアといい、初(常高院)の父である浅井長政の妹です。京極マリアは、その名が示すとおりキリシタンでした。
ということは浅井長政の子と浅井長政の妹の子が結ばれたということで、つまりマリアの姪と
いとこ同士の結婚をしていたということに。 そのことを危惧したマリアは、まず丹波のキリシタン武将ジョアン内藤飛騨守忠俊の妹、内藤ジュリア等に初を入信に導くように協力を願い、1601年頃、受洗に漕ぎ着け、続いて、初や弟の高知の働きかけもあり、高次は入信に至ります。
(一言:戦国時代でも現代と同様に、近親による結婚には問題があるという考えがあったのですね。ですが夫である京極高次との間には子が生まれることもなく、後に夫が先立ったことで、キリシタンとしての立場を貫く必要もなくなり、初は出家して常高院となったのでしょう。)
ならば初(常高院)にもキリシタンとしての名があったはずですが、弾圧の対象となる名を公にすることはなく、現在にキリシタンとしての名は伝わっていません。
ですが、現代において小浜地方には墓石をはじめ、寺院跡などから遺物が多く残されていることから、初(常高院)はキリシタンとしての立場を隠しながらも、領内のキリシタンを擁護し、彼女が建立したとされる寺院は、その礼拝が可能な造りになっていたとされることとの整合性があり、史実として立証されたことになります。
これで初(常高院)がキリシタンだった理由については解決です。
ですがもう一つ、彼女の名を聞いて素朴に疑問を持った方はおられませんか?
なぜ浅井三姉妹の次女の名が初なの?と。
そんな素朴な疑問を持ったことで、こんどは初(常高院)の姉:淀殿(茶々)にまつわる新たなる闇?があるらしことが見えて来ました。
それは浅井三姉妹の母:市と織田信長に起因する闇?だったのです。
なぜ浅井三姉妹の次女の名が初なのか?というお話は次回に。
初(常高院)を演じているはいだしょうこさん |
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