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〜真田丸:真田信政はなぜ反抗的なキャラクターで描かれるのか?について〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』に登場する真田信之の次男、真田信政は、父・母・兄などに対して素直に従えない性格の人物像として描かれています。
たとえば第43回放送『軍議』の中でも、豊臣と徳川の両陣営に別れてしまった真田家、つまり幸村親子と信之の親子の隊が直接ぶつかり合うことがないようにとの信之からの信吉や信政に対する通達を、信吉は率直に受け入れ、信政はあくまでも戦いである以上、相手が肉親であっても手心や遠慮など無用と言い張ります。
ではなぜ信政は他者に対して素直に従えない人物として描かれているのでしょう?
真田信政 - Wikipediaの記述には、
(つまり:簡単に言ってしまえば領主代行であり、現代の天皇にかかわる問題でたびたび取り上げられる天皇を代行する執権のような立場で信政は幼い熊野助に代わって領主の役目を果たしたのですね。そして信政は、少なくともこの時点まではひがみ根性を出すことも無く、立派に真田家の年長者としての役目を誠実に果たしているように見えます。)
そして五年後の、寛永16年(1639年)、熊之助の早世により、信政は晴れて沼田藩主となります。
この際、相続した沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟信利に分与し、それまで領有していた松代藩内分の1万7000石は弟の信重に譲ります。
真田信政 - Wikipediaの上記の部分の記述だけでは意味がよくわからないと思いますので説明を加えると、
もともと真田信之が1622年(元和8年)に信濃国上田藩より松代藩に13万石で入封(移封)した後、明暦4年(1658年)に3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立( - 1680年改易)し、以後松代藩は10万石として幕末までこの地は真田家の所領として続きました。
以下の地図で上田藩と松代藩の位置関係を確認して下さい。
信政は晩年、信之が松代藩の後継の問題で、兄:信吉の家系に当たる沼田藩主への相続を考えているために藩主に居座っていると思い込み、父子間で対立があったとされます。
つまり信政が相続問題で、父:信政が嫡流の信吉の家系に松代藩も譲ろうとして、いつまでも松代藩に居座っていると思い込んでいたために、信政は信之に反抗的な態度を取っていたという記録が残っているために、『NHK大河ドラマ 真田丸』での信政は、真田家において事有るごとに反抗的な態度をとるキャラクターとして描かれているようです。
ですが実際は、信之は幕府に対して何度も隠居して信政に家督を譲ることをを願い出ましたが、将軍徳川家綱が幼少などの理由で認められなかったのだそうです。
そうとは知らない信政は、父より先に生涯を終えようとした時、信政は遺言状に信之のことは一切書き残しておらず、それを知った信之は立腹したそうです。
なぜ信之は自身より先に故人となった我子:信政に腹を立てたのでしょう?
『NHK大河ドラマ 真田丸』では、昌幸がまだ健在だった時、事有るごとに信之よりも信繁(幸村)を重用していると思い込み、父:昌幸に反感を持ち続けていました。
しかしその後信之は昌幸や信繁らと袂を分かち、離れた立場で改めて自身と昌幸や信繁との関係性を見直して見た時、己の屈折した思いに気づき、関ケ原の戦いや大坂の陣では、敵味方の立場を超えて、昌幸や信繁(幸村)のために信之は奔走する姿が描かれていました。
それはドラマ上のことではなく、史実においても信之は豊臣方とは敵対関係にある徳川方の大名となって後に献身的に昌幸や信繁への思いを強く持って動いたと伝わります。
そんな信之から見て、兄弟や父に対しての妬みをもって最後の遺言にまで家族に対する思いやりの一言もないことに、強く憤りを感じたのでしょう。
我が子:信政が、父:信之や叔父:信繁の生き様に何一つ学ぶこともなく先だった事への無念が信之にはあったのだと。
そのな信政の遺児たちには、信政の屈折した思いが伝わり、更なる不幸を招きます。
真田信政 - Wikipediaの記述に、
長男信就を故あって相続対象から外したが(旗本寄合席として別家を立てる。のち七男の信弘が幸道の跡を相続)、次男の信守は17歳の正保2年(1645年)、異母弟の三男信武(大学、16歳)を殺害して自刃、四男の信福は夭折するなど後継者に恵まれず、死の直前に生まれたばかりの幼少の六男右衛門(幸道)を後継指名している。末期であり幸道も幼少でもあるため、支藩で幸道従兄の沼田藩主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あったが、信政の遺言状や祖父の信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門の相続と決定した。
という記述があるように。
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上から目線さん。
いよいよクライマックスですね!
ところで、家康が秀吉より先に死んでいたら天下は、日本の歴史はどうなっていたでしょうか?
2016/11/13(日) 午前 6:20 [ ヨシヒロ ]
> ヨシヒロさん
大阪が首都になっていたのではないでしょうか?
しかし徳川を淀殿や秀頼は滅ぼそうなどとは考えないとも思います。
大阪と東京のダブルスタンダードとなっていたかも。
ですが、秀吉は、大陸への進行をあきらめず、結果、世界の強国に早くから侵略されていたとも思えます。
2016/11/13(日) 午前 8:39 [ 上から目線 ]
上から目線さん。
秀吉は、北条氏を除き敵対した島津や毛利、長曽我部であっても寛大に接していたので秀頼親子も秀忠を五大老筆頭に上げていたでしょう!徳川を滅ぼすなら上杉や伊達も滅ぼさなくては行けないので切りがありません。 日本が強国に支配されるとしたら、ポルトガルやスペイン、イギリス、オランダでしょうか?
2016/11/13(日) 午前 10:23 [ ヨシヒロ ]
> ヨシヒロさん
案外中国に手痛いしっぺ返しをもらっていたやもしれません。
2016/11/13(日) 午後 6:01 [ 上から目線 ]