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〜真田丸:木津川口の戦いでの明石全登軍の敗北は大したことではない?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』では、大坂冬の陣の前哨戦となった木津川口の戦いでは、その砦を預かる明石全登が砦におらず、大阪城にいたために、容易く徳川勢によって砦が落ちますが、幸村は大阪城の南側が重要であり、木津川口での敗戦は大したことではないことを語りました。
果たしてそうでしょうか?
木津川口は大阪城の西側、つまり海側にあり、大阪城の惣構えにおける西惣構堀(西横堀川)に至る水系の入り口に位置する要所にありました。
つまり明石全登が守備する木津川口砦は、西惣構堀(西横堀川)を挟んで、南側に進軍して来た徳川軍と対峙する位置にあるということです。
そもそも大坂城は、その周囲を取り囲む内堀・外濠に加え、惣構えとしての北の淀川、東面の東惣構堀+平野川、南面の南惣構堀(空堀)、西面の西惣構堀(西横堀川)によって外敵からの侵入を守られた城でした。
このうち南面の南惣構堀は空堀であることから、東西北に比べて防御力が劣ることから、幸村は真田丸を築いて南面を強化したのですが、内堀・外堀・惣構堀によって守られた城だということは、その水系を利用して水軍、つまり船によって大阪城へと近づきうる城だということです。
何が言いたいかと言えば、大阪城が水系に守られた城ならば、逆に言えば水系を利用して攻めうる城だということで、その水系の要所にある木津川口の砦が落ちるということは、豊臣方にとって決して無視できる出来事ではないのです。
によれば、
木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦いです。
1614年11月、遂に大坂の陣が始まり、徳川軍は包囲網を徐々に縮めつつありました。
これに対抗して豊臣軍は大坂城周辺に砦を築き備えたのですが、大坂城南西・木津村の木津川口はそのいくつかある砦の一つだったのです。
戻ってきた偵察隊の一人、森村重は「飯を炊く際に出る煙が少ないので、兵数が少ないと思われます」と報告し、これを聞いた至鎮は、家康の本陣・茶磨山に行き、本多正純に面会して「敵は地形を頼りにして兵力が少ないようです。そこで木津川口の砦を落としたいと思うのですが」と、攻撃の許可を求めました。
これを正純から聞いた徳川家康は「もし本当に簡単に落とせるのなら、大変結構である。ただ単独ではなく、浅野長晟軍に搦手を、池田忠雄軍が遊撃を、蜂須賀軍が追手として敵を攻めよ。木津は人馬を動かすのに便利な場所ではないので、三人で協力して落とすように」と命じたのです。 しかし蜂須賀至鎮は共同作戦では手柄を独り占めできないことに不満を抱き、至鎮は長晟と協力することなく単独で攻めたいと本多正信にそのことを話します。
すると正信は「責任は自分が取るので、好きにしていい」と許可します。
そのため蜂須賀軍は翌日、11月19日午前6時と決まっていたところを、3時に出発して抜け駆けをし兵3000を二つに分けて水陸から砦を攻撃した。蜂須賀水軍は40艘で木津川を進み、途中で樋口雅兼の率いる5艘の豊臣水軍が攻撃してきたが捕縛します。 一方、陸路の方は砦の背後に回り、民家に火を放った後、水軍と協力して挟み撃ちにします。 豊臣軍は守将の明石全登が会議のために不在でおらず、一族の明石全延が守っていたために指揮が上手くいかず、蜂須賀軍の挟撃で大混乱に陥り、大した抵抗も出来ないまま博労淵に撤退してしまったのです。
一方遅れて(予定の時刻どおりに)進軍していた浅野長晟は蜂須賀勢の抜け駆けを知り、進路上の河川を急いで渡河しようとして多数の溺死者を出してしまい、戦闘にも間に合わなかったのです。
ご存じだとは思いますが、浅野長晟は真田昌幸・幸村(信繁)が幽閉されていた九度山のある紀伊和歌山藩の藩主で、九度山での幸村らの幽閉を任されていたにもかかわらず、大阪城への入城を許した長晟にとって、この木津川口の戦いは、先の失態を挽回する機会だったです。
そんな長晟が、家康に蜂須賀軍と協力して木津川口砦の攻略にあたることを命じられたということは、この作戦を必ず成功させよと命じられたに等しいことだったのです。
にもかかわらず蜂須賀軍は抜け駆けして単独で砦をせめたのですから、その抜け駆けを知った浅野軍は、溺死者が出るほどにあわてふためいて河川を急いで渡河しようとしたのもうなづけます。 一方抜け駆けした蜂須賀至鎮は、
秀吉の死後、慶長5年(1600年)、徳川家康の養女で小笠原秀政の娘・氏姫(万姫・お虎、敬台院)を娶る。そのことから、同年の関ヶ原の戦いにおいて、秀吉の股肱の臣であった父・家政は病を理由に在国する中、至鎮は東軍に与して関ヶ原本戦に参加しています。
そしてこの大坂冬の陣では徳川方として参戦し、抜け駆けによって木津川口の戦いで武功を立たのです。
豊臣秀吉の家臣であったにもかかわらず、関ケ原の戦いから徳川方に与しながらも、秀頼政権において、豊臣姓を下賜されたのですから、大坂の陣ではこの豊臣からの恩に報いるために豊臣方として戦うべきだと私には思えます。
しかし大坂の陣においても蜂須賀至鎮は徳川方として戦いました。
良くも悪くも機を見るに敏な武将だったと。
話を木津川口の戦いに戻すと、その砦を豊臣方が失ったことにより、これ以後、西惣構堀(西横堀川)の西岸に、浅野軍・戸川軍・山内軍・松平忠明軍・蜂須賀軍・池田忠雄軍・森忠政軍の布陣を許すこととなります。
これはドラマにおいて幸村が言ったように「大したことではない。」とは決して言い切れる事態ではなかったと言えるでしょう。
木津川口の戦いの布陣と動き
大坂冬の陣の配置図
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