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〜真田丸:福島正則と平野長泰はドラマそのままに豊臣家のために動いた?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
まずは先に言い訳をしておきますが、当ブログでは『NHK大河ドラマ 真田丸』が史実とは異なる設定があることを数多くご紹介していますが、これは『NHK大河ドラマ 真田丸』そのものを否定するものではありません。
歴史上の出来事とドラマ設定との違いを知って頂くことで、より歴史への興味を持って頂きたいとの思いで各ページに取り組んでいます。
真実を知ろうとすることはとても楽しく、自らを豊かにしてくれると思うからです。
くどいですか?ですよね、ハイ、それでは本題に入りましょう。
例によって「史実と違うやろ!」って言ってる感じの。すみません。ペコ(頭下げた擬音です)。
『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』では、徳川方の真田信之のもとに、秀頼に兵粮を送っていたことが家康に知れ、江戸での留守居役を命じられていた福島正則と、平野長泰が訪ねて来て、信之に豊臣方に兵粮を届けるために、幸村へ働きかけてほしいと協力を求めます。
このようにドラマ上では福島正則、平野長泰の両名がかつて秀吉から受けた恩を強く思い、その恩を返すべく、自らの意志で豊臣家の秀頼らに兵糧を送ったというストーリーでした。
しかし実際はそうではありません。
福島正則 - Wikipediaによれば、
福島正則は豊臣恩顧の武将でありながら、関ケ原の戦いでは石田三成に対する反感からいち早く徳川方となりますが、1601年)3月に芸備に入封した正則は、領内を治めるための諸事を万端整えると、慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れず、慶長13年(1608年)に秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけています。
慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた一人でもあったのです。
なお正則自身は病と称して会見には同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えたとされます。
(一言:正則は秀頼が徳川政権下になっても身の立つようにとの思いで家康との会見を実現させる一方で、決起にはやる両家の家臣が暴挙に出て両者の身に危険が及ばないよう警備役に徹したのですね。家康・秀頼の身辺警護は加藤清正に任せて。)
しかしそれも許されず、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まります。
恐らく大阪冬の陣において晩年にあった正則は、福島家の後継者たちの徳川政権における安泰を願って豊臣家への思いを自制し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留めたのでしょう。
にもかかわらず、戦後になって弟:高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられたなんて、徳川家はどこまでも豊臣家を根絶やししたかったとしか思えません。
恐らく福島正則にしろ平野長泰にしろ、一旦は三成と袂を分かち、徳川方となるも、徳川の家臣団の中では旧豊臣家の家臣に対するべっ視が少なからずあったのでしょう。
そして大坂の陣においては、かつて秀吉が織田の息子たちを一大名として従えたのと同様に、家康も豊臣家を一大名とするための戦いだと楽観的に考えていたのですが、家康の本心はそうではなく、豊臣家の滅亡させることにあることを知り、豊臣家への旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走したのでしょう。
大坂の陣以後、平野長泰は波風を立てず、旗本として、秀忠の安西衆(家康が駿府に隠居してから、駿河安倍郡安西(静岡市葵区安西)に宅地をあたえられ、徳川秀忠の時、御伽衆の上席に加えられた。 それを安西衆といった。)の1人に取り立てられて、3代将軍家光の代まで長寿をまっとうします。享年70歳でした。
ちなみに御伽衆(おとぎしゅう)は、主君に召し出されて側近として仕え、政治や軍事の相談役となり、また武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務めたましたが、政治の実権が重臣(例えば老中や奉行など)に移るにつれ、次第に勢力は衰えた。
なお、福島正則の改易と戦後の扱いについては、ウィキペディアの記述をそのままコピペしておきます。
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の命により、上使として牧野忠成と花房正成が江戸芝愛宕下の正則の屋敷にやってきた。こうして安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封の命令を受けることとなった。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。
元和6年(1620年)に忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。高井野での生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。
幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。福島家は取り潰されたが、幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。
『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』の中で、福島正則と平野長泰は真田信之の前で
「お互い長生きしような。」と語りますが、その没年からすれば確かに当時としてはそこそこ長生きだったのかもしれません。
ですがかつては勇猛な武将として名をはせた二人が、最後まで武将らしく生涯を全うしたか?と言えば、客観的には哀れな晩年だったとしか思えません。
家康の仕打ちもさることながら、秀忠や家光の旧豊臣家家臣に対する仕打ちは、決して公正なものだたとは言えないでしょう。
この福島正則と平野長泰の晩年の姿からも、真田信之の晩年が、いかに多難なものであったかを物語っているのではないでしょうか?
深水元基さん演じる福島正則
近藤芳正さん演じる平野長泰
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