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〜真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』で、徳川家の二代将軍 秀忠は、家康の後継者としては物足りない、少なくとも戦場においては凡庸な人物像として描かれおり、第47回放送『反撃』においては、「真田丸など大軍で攻めれば難なく落とせる。」とか、「豊臣家と和議を結ぶことなど必要ない。」などといった内容の言葉を家康に語り、その度に家康は「正信。」と声を上げ、本多正信に対して家康が行う事の説明を代弁させることで、秀忠の考えの浅さを指摘します。
こうした秀忠に対する家康の態度は、将軍として余りに思慮の足りなさに、自らが諭すには次元が低すぎるため「答える事すらj面倒くさい。」と言わんばかりです。
少し話は脱線しますが、そんな凡庸な秀忠を演じているのは、星野 源(ほしの げん)さんですが、私には星野 源さんは、秀忠役としては不適任だと思えます。
なぜなら星野 源さんは、俳優として大人計画に所属して活躍し、ミュージシャンとしてはインストゥルメンタルバンド「SAKEROCK」のリーダーとして、主にギターとマリンバを担当しながらシンガーソングライターとしても活躍しています。また、文筆家としてエッセイストやコラムニストの顔も持ち、複数の連載や刊行物を著しているなどマルチタレントとして多方面で大活躍されているだけあって、ドラマ上の秀頼役においても鋭すぎる眼差しが印象的で、凡庸な人物、つまり秀忠らしい秀忠にはどうしても見えないのです。
それはともかく、前ページの〜真田丸:濠の埋め立てなどの和睦が無くとも豊臣の勝利は無い!ホントに?〜では、もしも大坂冬の陣の後に豊臣方が家康の和睦の提案を受け入れていなくても、豊臣の勝利は無い。という一般的な見方に対して、異論の余地を考えてみました。
その結論としては、「もしも和睦がなかったなら、豊臣方が策略を用いて大坂冬の陣で家康を討ち、徳川に勝てる可能性はあった。」としました。
そこで今回はもしも豊臣方が家康を討ったなら、既に将軍となっていた秀忠は、家康に代わって引き続き諸国の大名を率いて豊臣討伐を成し得たか?について考えてみたいと思います。
そもそも大坂冬の陣に際し、既にそれ以前の天下分け目の関ケ原の戦いにおいて勝利していた徳川方でしたが、それを可能にしたのは家康の力によるものであり、言い換えれば家康の知力と権威に全国の諸大名は服従していたのです。
つまり家康なればこそ当時の態勢は徳川政権としての納まりを見せていたということで、
そんな家康の存在がもしもなくなったとしたら、果たして秀忠にその後を引き継ぐことができたのでしょうか?
歴史を振り返ってみれば、武田信玄亡き後の武田家、上杉謙信亡き後の上杉家、織田信長亡き後の織田家、豊臣秀吉亡き後の豊臣家、そのどれを見ても衰退の一途を辿っています。
徳川家は後に家光という大きな存在が3代将軍として現れ、徳川政権は万全のものとなって行きますが、それは家康存命中に豊臣家を滅ぼしていたからこその歴史です。
冬の陣での和睦がなければ、大坂城の外濠も、真田丸も健在です。
この難攻不落の大阪城を、秀忠を大将とする徳川軍は、陥落させることができたでしょうか?
数多くの大砲をもってすれば、たとえ秀忠でも豊臣家を滅ぼせた!と断言できるでしょうか?
政治力はともかく、少なくとも戦場においては、これまで数々の戦国ドラマに描かれて来た凡庸な秀忠像が正しいとするならば、大坂の陣における徳川方の中にも「家康亡き後の徳川など恐れるに足りず。」とばかりに豊臣方に離反するものが複数現れ、伊達政宗などは天下取りの動きを見せたと思えます。
果たして徳川秀忠の実像とは、どのような人物だったのでしょうか?
続きは明日。
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