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〜真田丸:凡庸な将軍と言わる徳川秀忠の実像とは?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回の徳川家の〜真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?〜では、二代将軍 秀忠が多くのドラマで描かれるような凡庸な人物であったとすれば、家康抜きで豊臣家を滅ぼすことなど出来なったのではないかと記しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。
9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。 これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされています。
慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定します。
この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家においては、右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなるのです。
関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。
ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実します。
そしてわずか2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となります。
1600年の関ケ原の戦いに大勝した家康は、慶長10年(1605年)正月、父:家康が江戸を発ち伏見城へ入ると、2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達し、3月21日には秀忠も伏見城へ入ります。
4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられます。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となりますが、将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制となり、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。
(一言:ようするに秀忠は自らの考えが政策に及ばない、お飾りの将軍でしかなかったということになります。)
結果、おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との接渉を担当しました。
これは「秀忠は人心の掌握力に劣る。」というのが家康の秀忠に対する評価だったと思えます。
秀忠は一般的に言われるような凡庸な将軍ではなく、『武勇ある実直な将軍〉』という表題をかかげていますが、このサイトでその武勇の実例に触れる記述はみあたりません。
やはり実戦における秀忠の実績は皆無に等しいと理解せざるを得ません。
秀忠は、家康から3万8千の兵を任されながら、関ケ原の戦いで上田城の真田昌幸に手こずり、本戦に遅刻して家康から大目玉をくらったことに懲りて、大坂冬の陣に際しては関ケ原の戦いでの時と同じ轍を踏むことを恐れて強行にすぎる進軍により、早々に家康のもとに至ります。
これで秀忠は家康に「よくぞ早々に来てくれた。」とほめられるかと思いきや、強硬な進軍が兵の疲労困憊を招いていたことから、またしても叱責されます。
二代将軍 徳川秀忠 - 歴史研究所によれば、秀忠の功績として、
●江戸幕府の基本システムの確立
●老中制度の元となる、老職を設定
●諸大名の大規模な改易と転封。
という政治的な功績として3つを掲げていますが、『諸大名の大規模な改易と転封』については関ケ原の戦い及び大坂の陣において徳川方となっていた旧豊臣方の大名に対して、その折の功績いかんにかかわらず、その後の小さな不業績を殊更にとがめて改易や転封という厳罰に処し、自らの意に沿わない人物も次々と排除して行きます。
これは秀忠がいかに小物で、懐の浅い人物であったかを如実に物語っていると私は思います。
ようするに秀忠は自身に自信が持てず、自らがいかに将軍もしくは武将としての器が小さいかを無意識の内に自覚していたということです。
二代将軍 徳川秀忠 - 歴史研究所では秀忠をとにかく律儀すぎる人物だったと記しています。
徳川家康曰く「律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」 重臣の本多正信曰く「殿も時には法螺を吹きなされ」と、言われるほどであったが(これに対し秀忠は、「父のウソを買う者はいくらでもいても、私のウソを買う者はいないだろう」と答えている)、そのために関ヶ原の戦いへの遅参があっても、将軍の座をしっかりゲットすることが出来たのかもしれない。 およそ父に刃向かうような人物ではなかったのであり、また戦争は苦手であったが、政治系については抜群の能力を持ち、家康の路線を忠実に受け継げた。色々理由はあるが、ここが兄・徳川(結城)秀康を差し置いて将軍の座に就けた最大の理由では無かろうか。 そして期待通り、徳川秀忠は、父が死去すると、幕藩体制を揺るぎないものにし、江戸幕府長期政権を作りあげることになる。鎌倉幕府・室町幕府の2代目と徳川秀忠は雲泥の差であった。酒井忠世、土井利勝、安藤重信といった重臣に支えられ、他方、自分に従わない弟の松平忠輝、譜代で家康子飼いの本多正純を改易。 そして、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)を改易。最終的に、彼が大御所の時代も含めると、外様23家、親藩・譜代16家も改易されたのである。また、転封も秀忠の時がピーク。こうして、親藩だろうが譜代だろうが外様だろうが、遠慮無く改易するぞという姿勢を出し、大名統制を行い、幕府に刃向かいそうな芽はことごとく潰したのである。 なお、妻で織田信長の姪のお督に頭が上がらなかったのは有名な話。 側室を持たず、一度だけ女性に手をつけたところ、後の保科正之が生まれてしまい、会うこともせずに保科家に養子に出してしまっている。しかし、頭が上がらないと言っても、現代と違うのだし、信長も秀吉も家康も生きていないのである。お督と不仲になったところで秀忠の地位に影響は殆ど無く、側室を持つことは出来たはずである。恐妻家であったのは事実だが、やはりそこにも秀忠の律儀さが表れ、もちろん愛妻家だったのではないだろうか。 としいます。 前向きに秀忠を評価すれば、二代将軍 徳川秀忠 - 歴史研究所のような記述となるのでしょうね。
皆さんは秀忠をどう評価しますか?
父:家康が大きすぎる存在であったことに、同情すべき点は多々あるとは言え、私は・・・・・・。
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