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〜真田丸:家康は大御所として関ケ原の戦い以後、ありとあらゆる手を使い〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第47回放送『反撃』では、大坂冬の陣の後に結ばれた和睦交渉により、家康は大坂城の防御の要だった濠や真田丸を排除します。
放送の中で家康と秀忠は、以下のような会話を交わします。
家康:「見よ、瞬く間に濠は埋められて行く。」
秀忠:「真田丸も、見るも無残な姿に。」
家康:「これで、裸の城じゃ。後は、向こうが和睦を破るよう仕向けるだけ。」
秀忠:「そこで総攻めを掛けるのですね。」
家康:「秀忠、これぞ、城攻めよ。ハッハッハッハッハッハッ、ウハッハッハッハッハッハッハッ。」
と勝利を確信した高笑いを見せます。
考えてみれば秀吉は百姓から成りあがった天下人で、武将らしく正々堂々の戦いに固執せずに、奇想天外な策によって勝ち続けたことに違和感はありません。
ですが家康は違います。生まれながらの武将であり、自らを源氏の流れをくむ血筋と公言していました。
にもかかわらず、天下取りを目前にした戦いにおいても、決して横綱相撲はとらず、例え卑怯・姑息な手段であろうと、勝つためには何でも行う、言わば百姓以下の卑劣な手段も辞さなかったのです。
(一言:言っておきますがこれはお百姓さんを悪く言っているのではないですよ。武芸や兵法に通じていない者が、それ以外の熟慮を持って戦うのは無理からぬ事と言っているのです。)
和睦後の家康のやり口は、相手が握手を求めて来たところを逆手に取って後ろ手にした上で、なぶり殺しにするような手口です。
果たしてこれが源氏の血を引く?天下人の成す行いでしょうか?
ドラマの中で、かつて三成亡き後の豊臣家の命運を一身に背負っていた片桐且元の豊臣家に対する忠誠心を利用して淀殿の居場所を聞き出して大坂城を砲撃し、その事に抗議する且元に対して、ただ無言で軽蔑の目を向けるのみでした。恐らく史実においても同様だったでしょう。
「勝てば官軍」という言葉の根源は、この家康のやり口から始まったとすら思えるくらいです。
振り返れば関ケ原の戦いにおいても、
家康は徳川家直属の大名ではなく、多くの豊臣家恩顧の大名を、嘘と脅しで寝返らせて勝ち取った勝利でした。
現在では関ケ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が、家康率いる東軍に勝つ手立ては無かったという結論が大勢を占めています。
関ケ原の戦いにおいて会津(上杉)征伐に向かう家康の出陣を受けて、先に挙兵した三成軍は大垣城に入り、東軍を迎え討つ態勢を整えていました。
とことが、福島正則(旧豊臣方の東軍)らが率いる先発隊によって織田軍の守る岐阜城までを一気に占領して本隊と先発隊が大垣城に迫る中、三成にとっては頼らざるを得なかった毛利軍と小早川軍の内、小早川軍が西軍本隊へ向けて動こうとしなかったがために、小早川秀秋の動きを監視すると同時に本隊との連携をとるため、あえて夜陰に乗じて大垣城を出て笹尾山に陣取ったとされます。
この西軍本隊が大垣城を出たことが、西軍の大敗の結果を生んだ一番の原因だとされますが、
それでも西軍にとっては、小早川軍と毛利軍さえ西軍として機能していれば、あえて谷を遡って攻め上がる徳川軍を、必勝の構えである鶴翼の陣によって殲滅できる態勢でした。
(一言:この時家康軍があえて鶴翼の陣をひく西軍の中に深く攻め入ったのは、毛利秀元軍や小早川秀秋軍を味方につけているという確信があったからでしょう。)
ところが関ケ原において開戦されるやいなや、小早川秀秋は家康軍からの銃撃の脅しに恐れを成し、かねてより家康からの寝返りの命に従う決断を下し、小早川軍は松尾山から北に向かって一気に駆け下り、大谷吉継軍・宇喜多秀家軍を討ち崩したために、西軍はパニックに陥り、更なる裏切り者も続出します。
それでも、南宮山に陣取る毛利秀元軍が家康の寝返り要請に呼応せず、家康本陣を南宮山より一気に駆け下り、背後から打ちかければ、西軍の大敗はなかったのですが、この毛利軍も態度を決めかね、東西両軍の戦いを静観していたため、わずか半日で徳川軍の勝利が確定し、石田三成は佐和山城へと敗走するも捕らえられ、後に斬首されたのです。
そして家康のなり振りかまわぬ工作は、関ケ原の戦いのみに止まりません。
今日2016年12月4日の日曜 10:00 - 10:30においてテレビ東京制作の美術系教養番組である『美の巨人たち』と言う番組(制作局では既に10月22日(土) 22時00分〜22時30分に放送)で、『関ヶ原合戦図屏風』が取り上げられました。
日本の歴史の大きな転換点となった「関ヶ原の戦い」(1600年)。徳川家康が天下を取ったこの戦いを描く『関ヶ原合戦図屏風』は、縦2メートル、横は2隻合わせて12メートルの絢爛豪華な屏風絵です。描いたのは誰なのか?誰が何のために描かせたのか?さらにこの作品、元々はもう一双あり、2双4隻だったと考えられているのです。現存しないもう一双には、一体何が描かれていたのか…?歴史ロマンの謎に迫りました。 大阪城公園のすぐ目の前にある大阪歴史博物館に展示されている重要文化財・関ヶ原合戦図屏風は、別名・津軽屏風と呼ばれ、樹木が生い茂る山には緑青がふんだんに使われています。
重要文化財・関ヶ原合戦図屏風
右隻(上の屏風)から詳しく見ていくと、
舞台は美濃国・大垣で関ケ原の合戦前日の9月14日の様子が描かれています。
西軍の本拠地の大垣城では武将たちが敵の様子をうかがい、対する東軍の赤坂の野営地です。
意外なのは東軍の陣地が西、西軍が東に置かれていることです。
絵図全体の見渡しても合戦で活躍した各武将が特定できない描写になっているのに対して、家康は街道を行く隊列の中に白馬にまたがるハチマキ姿の武将として描かれており、その存在は一目で分かります。関ヶ原合戦図屏風の右隻には、人物一人ひとりの着物や甲冑まで、柔らかな筆致と鮮やかな色彩で描かれ、戦の重要場面も随所に描かれています。
一本の川をはさみ繰り広げられているのは杭瀬川の戦いで西軍は勝利を収め、大いに士気が上がったといいます。
石田三成が陣取ったのは笹尾山。徳川家康が陣取ったのは南東へ3kmほど離れた桃配山でした。山頂には家康が腰掛けたと言われる腰掛石も残されている。
ここでどんな戦いが繰り広げられたのか?
午前8時、井伊直政が先陣を切り、先を越された福島正則がこれに続く。
戦が始まって約4時間で戦況が大きく動きます。
戦況が一進一退の硬直を見せる中、西軍本隊はかねてより用意していた大筒を用いて東軍に動揺を与え、戦況は西軍有利に動いたその時、当時まだ18歳の西軍・小早川秀秋は、東軍に着くよう家康から要請を受けていました。しかし東西軍のどちらに加担するかの態度を明らかに見せない秀秋に対し、家康は世にいう問鉄砲(といでっぽう)を小早川軍に向けて打ちます。
小早川秀秋は、家康が怒っていると感じ、西軍を攻撃し始めたのです。
「関ヶ原合戦図屏風」には、そんな敗走する西軍と追走する東軍の姿や、屏風図の左下には松尾山・小早川秀秋軍も描かれているのです。
小早川の寝返りで戦況は一変し、天下分け目の戦いはわずか半日足らずで勝負を決します。
それにしても、、関ヶ原の戦いを描いた屏風は他にもあるが、「関ヶ原合戦図屏風」は、関ケ原の戦いを描いた他の作品に比べ、圧倒的に絢爛豪華なのは何か理由があるのでしょうか?
「関ヶ原合戦図屏風」は、合戦の前日と当日の2日間をなぜここまで絢爛豪華に描いたのか?
美術史家の狩野博幸さんによればこの「関ヶ原合戦図屏風」は、「関ヶ原の戦いからそれほど時間が経っていない頃に描かれている」という。
さらに狩野が注目したのが「雲が孤立して書かれている」「この書き方は大和絵系・土佐派」でこの頃は土佐光吉と言う人がいると語る。彼が描いたとされる合戦図と今日の作品を比べてみると雲や人物の描き方が確かに似ている。
関ヶ原合戦図屏風で気になるのは縦約2m、横は2隻で12mという大きさ。なぜここまで巨大なのかについて、狩野博幸は「注文者は力を持った権力者であるということ」を示していると思う。と、語ります。
謎を解く鍵は青森にあった。
重要文化財 関ヶ原合戦図屏風(せきがはらかっせんずびょうぶ八曲一双のうち、右隻1、2扇部分)
は、大阪歴史博物館蔵(前田善衛氏寄贈)で、江戸時代初期 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦を描いた屏風。徳川家康の愛蔵品であり、家康養女の満天姫が陸奥の大名・津軽家へ輿入れする時の道具として持参したものだそうです。
作者は明らかではないが、当時宮廷周辺で活躍していた土佐光吉が描いたとする説や豊臣秀吉や家康に仕えた狩野光信との説もある。この屏風は大垣城に籠もる西軍や関ヶ原へ向かう家康の姿、戦いが終わり伊吹山に逃げ込む西軍とそれを追う東軍など、関ヶ原での合戦そのもの以外も描かれているところが特徴。現存する関ヶ原合戦図屏風の中では最も古いとされ、右隻1、2扇部分の部分には、西軍の拠点となった大垣城とその付近の砦が描かれ、城の内外とも具足を身につけた兵があわただしく行きかう様子を描きだしています。 「関ヶ原合戦図屏風」は、家康が描かせ江戸城の大広間に飾らせていた可能性が高いというのです。
さらに現在は一双しか残っていないがもともとは二双だった可能性が高いとも。
「関ヶ原合戦図屏風」について茨城大学人文学教授の高橋修さんは、右隻は合戦前日の大垣周辺、左隻は合戦当日の午後で、両方の間には確実に欠落があるといいます。
さらに後の一隻について全体の左側に行く説でいいと思うと言い、佐和山城周辺が描かれていると推察。
大垣から佐和山まで距離で約40kmで合戦前日から翌日までの3日間を家康は二双の屏風に仕立て上げた。その為これほどの巨大さが必要だったと。
世紀の一戦は自らの力によって勝利したと印象づけるために、画面には家康以外には特定できる人物がないように描かれているのではないか?
「関ヶ原合戦図屏風」には、
徳川の時代はここから始まったという創世の神話が描かれているために、どこまでも壮麗で美しくなければならなかったのだと。
(一言:まるで天皇家の権威を確固たるものにするために記された古事記・日本書紀の記紀神話のようですね。)
関ヶ原の戦いから3年、家康は江戸幕府を開き、2016年の今年は奇しくも家康の没後400年です。関ヶ原が歴史の分水嶺となって、信長でもなく秀吉でもない、家康こそが戦国時代に幕を引いたという神話が、この「関ヶ原合戦図屏風」には描かれているのです。
東照神君から東照権現へと神格化した徳川家康の神話が。
それだからこそ、関ケ原の戦いが、徳川家が本来従えていた譜代大名の活躍によってではなく、家康の調略によって寝返った旧豊臣家の大名(外様大名)によって西軍に勝利したという史実を隠ぺいするためにも「関ヶ原合戦図屏風」は、旧豊臣家の大名らの存在が特定出来る描写をあえて排除した手法で描かれているのではないかと、『美の巨人たち』「関ヶ原合戦図屏風」は結論づけました。
こうして、大坂の陣においても、家康は嘘と脅しを巧みに用いて、豊臣家を滅ぼし、自らは神格化してゆくのです。
そしてこの神格化もまた、人心を誤魔化し、ある時は脅しの根拠となる権威を得るためのものだったと言えるでしょう。
そのことがあったからこそ乱世は納まり、太平の世が300年続いたと言いますが、果たして江戸時代は、本当に泰平の世と言い切れるものだったのでしょうか?
それはあたかも今日の中国共産党支配下に置けるかの国の見せかけの平和だったのではないでしょうか?
更に言えば、豊臣秀頼による政権下では、決して実現出来なかった平和だったのでしょうか?
皆さんはどう思われますか?
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