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〜真田丸:馬上宿許筒が幸村オリジナルならば、その設計は九度山の地で?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』を見て皆さんが最も印象に残った事と言えば、やはり真田幸村が使った馬上筒という鉄砲でしょう。
赤備えを身に纏ってこの馬上筒を試し打ちする堺雅人さんの姿は、「カッチョイー。」と皆さん思われたはずです。
ドラマ上において、大坂冬の陣の後 徳川軍が陣を撤収して行く中、休戦状態にあった大阪城内では未だ浪人たちは城を離れようとしないどころか、戦前7万人だった数が、豊臣方が徳川方の大軍を追い払ったという民衆の噂を受けてむしろ増加し、10万人に膨れ上がります。
そんな折、秀頼のもとに家康から書状が届きます。
幸村:「家康は何と?」
大野治長:「浪人たちに今すぐ暇を出せと言うて来た。これ以上引き延ばすと、徳川に刃向かうつもり
とみなすと」
大蔵卿:「言わぬことではない。」
幸村:「とりあってはなりませぬ。」
大蔵卿:「浪人たちを一日も早く追い出すべきです。」
治長:「その話はもう決着がついております。」
木村重成:「浪人たちに渡した支度金が、そろそろ尽きはじめています。」
治長:「その心配もあったー。」
秀頼:「修理、城には今いか程の蓄えがある?」
治長:「浪人たちをしばらく養うだけの金はございますが・・・・。」
秀頼:「左衛門助、それをくれてやっては駄目か?」
幸村:「渡したところでその場しのぎ、いま少し待ちましょう。次の戦に勝てば、徳川から領地を奪い返
すことができます。」 治長:「要害の完成を急がせよ。」
と話会い、幸村は大坂城の南側にあるかつて冬の陣で家康が布陣した茶臼山と秀忠が布陣した岡山を結ぶ間に空濠を掘ることで、徳川軍が再び攻め上がって来るのに備えようとします。
幸村は「戦はあくまで要害が出来てから、それまで辛抱してもらう。」として。
ところが、大野治房は配下の家臣を先導して藏を開け、金・銀・米を持ちだすという事件を起こします。
これにより、「渡したところでその場しのぎ、いま少し待ちましょう。」と語っていた幸村の当初の考えは変更せざるおえなくなり、大坂城の蓄え全てを浪人たちに分け与えます。
これで浪人たちの不公平感は払拭されると思われたのですが、ところが浪人たちは分け与えられた資金で武器を買い集めるという幸村の想定にはなかった事態となり、家康による大阪城総攻めへの格好の口実をあたえる結果となります。
大野治長はこの時、「もっと目を光らせておくべきだったー。」と次の戦が、迎え討つ態勢の整わぬまま始まってしまう事への危機感をつのらせます。
以上のようにドラマ上では、秀頼が浪人たちに大阪城に残る蓄えを分け与えたことで武器を買い揃えるという予想外の行動に出る中で、幸村はそれまで大坂城の南側に更なる要害を造ることに専念していたかのように描かれました。
そこで幸村は止む無く要害の設置を諦め、明日にでも徳川軍が再び攻めて来るであろう事態に対抗するため、かつて千利休の茶室があった畑から出て来た馬上筒の扱いに磨きをかけるというストーリーが展開されました。
ですがそれってドラマ上では問題ないものの、伝えられる史実としては矛盾する展開ではないかと思えます。
皆さんの中で幸村が夏の陣で使ったとされる馬上筒に興味を持った方は既にご存じかもしれませんが、不屈の名将・幸村 今なおヒーロー : 地域 : 読売新聞 ...には
大阪市東成区の真田幸村公資料館で展示されている火縄銃「 宿許筒(しゅくしゃづつ) 」(全長約60センチ)。1614年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、徳川軍と果敢に戦った幸村の品だ。8連発を可能にした当時のハイテク銃で、幸村が堺の鉄砲鍛冶と協力して開発したとされる。
夏の陣で、幸村はわずかな手勢を率いて徳川家康の本陣を急襲。馬上から家康を狙撃しようとしたが、誤って宿許筒を落とし、撃ち損じた。その後、宿許筒は戦利品として紀州徳川家が幕末まで保管していたが、戦後、米国人将校の手に渡った。
そのことを知った同区の鉄砲研究家・沢田平さん(79)が米オレゴン州に出向いて所有者と20年にわたって交渉。2009年に譲り受け、今年6月に開いた同館で公開に踏み切った。
古式砲術再興のため、各地にある約50の鉄砲隊の指導にも取り組む沢田さんは、6万丁にも及ぶ火縄銃を見てきたが、宿許筒と同じ構造の銃は一度も出会ったことがない。
「知勇の武将とのイメージが先行するが、発明家の一面があった。潔くまじめな人柄は現代に通用する優れた日本人像だ」。沢田さんは、幸村の生き方から学ぶことは多いと指摘する。
とあり、
大坂冬の陣に続く夏の陣で、幸村がわずかな手勢を率いて徳川家康の本陣である天王寺茶臼山に攻め込んだ突撃の武勇伝は有名だ。しかし、押し寄せる徳川方15万人に対し、勝ち目がないと判断した豊臣方は、浪人たちが次々と大坂から離れ、多勢に無勢。ところが、幸村の奇襲によって家康は2度も切腹を覚悟したらしい。どんな戦法を使ったのか。
「幸村が単身、家康の面前まで迫り、討ち取る寸前まで追い詰めたことは歴史的事実です。その瞬間、幸村は『馬上宿許筒』というマシンガンのルーツともいえる連発銃を手にしていました」 こう語るのは、人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士で鉄砲研究家の澤田平さん。戦国時代の砲術師範の子孫でもある。
「紀州に残る『南紀徳川史』には馬上宿許筒について“早込めの銃”と記されています。大きさは全長59センチ。普通の火縄銃の半分以下しかないコンパクトな銃です。馬上で扱う仕様でした。驚くのは連射機能です。私は米国に渡った実物の銃を入手して発射実験を行いましたが、8発の弾丸を10秒おきに発射できることが確認できました。これは普通の火縄銃の半分以下の時間しかかかりません。面前に馬上筒を突きつけられた家康が自害を覚悟したのも無理はありません」(澤田氏) とあります。
先の大坂冬の陣で幸村は、真田丸を造ることによって徳川軍と対峙しました。
しかし淀殿は徳川軍の砲撃に恐れを成して家康による和睦の申し入れを受け入れ、両軍は休戦状態になったのですよね。
ということは、恐らくこの時点で幸村は、大坂城を丸裸にされたことを踏まえて、苦肉の策で大将、つまり家康の首を獲るという特攻作戦に切り替えることでしか活路は無いと考え、馬上筒を堺の鉄砲鍛冶に発注し、夏の陣に至ったと考えるのが普通です。
ですがそうではないと思われているようです。
大阪の陣、天下取りを争った2丁の鉄砲 「鑑定団」澤田さん …にはこの銃が開発された経緯を推察する記述があります。
「幸村は単身、家康の面前に迫り、馬上宿許筒を突き付けた。しかし、狙撃しようとした瞬間、敵兵に攻撃された騎馬が動揺したため、銃を落としてしまう。馬上宿許筒は家康を撃ち損じた銃です」(澤田館長)
馬上から狙撃するという西部劇まがいの離れ技が、はたして可能だったのか。 「馬上宿許筒は半自動の速射連発銃で、省力化や自動化技術の結晶です。着火装置に改良を重ねて弾倉を付けることで、8発の弾丸を10秒おきに発射できた。手綱を握る手を軽く支えにすれば、馬上でも連射が十分可能だった。真田流砲術を受け継ぐ幸村公が九度山に幽閉中、各地に点在する協力者と連絡を取り合い、ひそかに開発したのではないか」(澤田館長) と。
澤田館長の推察が正しいとするなら幸村は、幽閉地であった九度山を抜け出て大阪城へと向かうその足で、先に堺に立ちより、自身の考案した馬上宿許筒を堺の鉄砲鍛冶と入念な懇談を持ち、この銃の発注を済ませた上で大坂城に入城したということになります。
なんとなれば、馬上宿許筒の設計図は、九度山の幽閉地で既に作成され、それを携えて堺に向かったとも考えられますし、ひよっとしたら九度山で作成した馬上宿許筒の設計図は、九度山の地を抜け出る以前に、佐助のような忍者的な者に堺の鉄砲鍛冶のもとへと届けさせ、大坂城へと向かう足で堺に立ち寄り、出来上がった馬上宿許筒をたづさえて大阪城へと入城したとすら考えられます。
生活にも困窮する幽閉生活の中で、「必ず家康との決戦の機会はある」との執念を持って。
馬上宿許筒が幸村のオリジナルだと言うなら、そう考えざるを得ないとは思いませんか?
独創的な新式銃を考案することも、その注文に答えて造ることも、一日二日で出来るはずなどないのですから。
馬上宿許筒を構える澤田平さん
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