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〜真田丸:真田幸村が家康を窮地に追い込んだ馬上宿許筒の構造と性能〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』では、秀頼が浪人たちに大阪城に残る蓄えを分け与えたことで武器を買い揃えるという予想外の行動に出る中で、幸村はそれまで大坂城の南側に更なる要害を造ることで徳川軍を迎え討とうとするも、大野治房の軽はずみな行動により、幸村は止む無く要害の設置を諦め、明日にでも徳川軍が再び攻めて来るであろう事態に対抗するため、かつて千利休の茶室があった畑から出て来た馬上筒の扱いに磨きをかけるというストーリーが展開されました。
今回はその馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) を分析してみました。
大阪市東成区の真田幸村公資料館で展示されている火縄銃「 宿許筒(しゅくしゃづつ) 」(全長約60センチ)。1614年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、徳川軍と果敢に戦った幸村の品だ。8連発を可能にした当時のハイテク銃で、幸村が堺の鉄砲鍛冶と協力して開発したとされる。
夏の陣で、幸村はわずかな手勢を率いて徳川家康の本陣である天王寺茶臼山に攻め込んだ突撃の武勇伝は有名だ。しかし、押し寄せる徳川方15万人に対し、勝ち目がないと判断した豊臣方は、浪人たちが次々と大坂から離れ、多勢に無勢。ところが、幸村は馬上から家康を狙撃しようとしたが、誤って宿許筒を落とし、撃ち損じた。その後、宿許筒は戦利品として紀州徳川家が幕末まで保管していたが、戦後、米国人将校の手に渡った。
奇襲によって家康は2度も切腹を覚悟したらしい。
そのことを知った同区の鉄砲研究家・沢田平さん(79)が米オレゴン州に出向いて所有者と20年にわたって交渉。2009年に譲り受け、今年6月に開いた同館で公開に踏み切った。
古式砲術再興のため、各地にある約50の鉄砲隊の指導にも取り組む沢田さんは、6万丁にも及ぶ火縄銃を見てきたが、宿許筒と同じ構造の銃は一度も出会ったことがない。
「紀州に残る『南紀徳川史』には馬上宿許筒について“早込めの銃”と記されています。大きさは全長59センチ。普通の火縄銃の半分以下しかないコンパクトな銃です。これは普通の火縄銃の半分以下の時間しかかかりません。
大阪の陣、天下取りを争った2丁の鉄砲 「鑑定団」澤田さん …では 「馬上宿許筒は半自動の速射連発銃で、省力化や自動化技術の結晶です。着火装置に改良を重ねて弾倉を付けることで、8発の弾丸を10秒おきに発射できた。手綱を握る手を軽く支えにすれば、馬上でも連射が十分可能だった。真田流砲術を受け継ぐ幸村公が九度山に幽閉中、各地に点在する協力者と連絡を取り合い、ひそかに開発したのではないか」(澤田館長) 以上のように、真田幸村の用いた宿許筒は、幸村オリジナルの銃(鉄砲)らしい。
ですが文章だけではその実力がよく理解出来ませんよね。
そこで改めて宿許筒を分析してみましょう。
まずは古式銃とも言われる火縄銃の構造から説明しなければなりませんね。
以下にその構造をご紹介します。
火縄銃の構造
上図に示された各パーツの名称の内、説明がなければ分からないものとしては、
まず前目当・先目当があります。
これは、標的(ターゲット)を狙い定めるためのもので、今のライフルなどで言うところのターゲットスコープの役割を果たすものです。
銃を脇に構え標的(ターゲット)を狙う時、銃身の真後ろに片目を持って行き、前目当と先目当の重なる直線の延長上に標的(ターゲット)が見えるように狙いを定めるのです。
次に槊杖(かるか・さくじょう・こめや)ですが、一般的にはカタカナでカルカと呼ぶのが普通です。
日本の火縄銃では、銃身の下部の銃床木部に、槊杖を収めるためのトンネル状の穴が設けられてそこに収まっていたが、そのままそれを装塡に使用するには耐久力に乏しいので、稽古等では太目の丈夫なものを別に携行した。銃の附属品として添えられたものは、あくまで緊急時の予備的なものだったそうです。
以上が火縄銃の構造ですが、次に幸村オリジナルと考えられる馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) の画像をご覧ください。
馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)
どうでしょう?
火縄銃の構造に示した従来の火縄銃の構造に比べて特徴的なものがあるとお分かりでしょうか?
そうです、銃床の下部に銃口よりも突き出た筒状のパーツが付随していますよね、何を隠そうこれが、沢田平さんの言う八発の連射を可能にするためのカートリッジ(銃倉)なのです。
西部劇などでガンマンが使う連発銃、いわゆゆるリボルバーと呼ばれる拳銃は、以下のような回転式の銃倉が銃身と撃鉄の間に備わっていて、機械式のセミオートで銃倉が回転し、連射できます。
リボルバー
ですが幸村の使った馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)は、従来型の火縄銃と同様に、先込め式(前装式装塡法)だったために、球形の鉛玉を銃口から込める必要があります。
恐らく馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)の画像から見る限り、真鍮製のカートリッジ(銃倉)のパイプ部分(カートリッジの引き金側)に8発の弾丸が入っていて、たぶんネジ式で本体にこのカートリッジが付いているのでしょう。
これをまず抜き取り、カートリッジ(銃倉)のパイプ部分を銃口に挿入し、その向かって右側にあるレバーを押し出せば、弾丸が装填されるのだと思うのですが、私がレバーと思っているには弾丸なのかもしれません。その場合は弾丸をカートリッジから取り出して銃身に装填することになるでしょうね。
とりあえず私の見方が正しいとしましょうか、
文章ではよく分からないと思いますので、以下の現代の連射砲のカートリッジ式門管(火管)の装填方法の図を例として見て頂ければわかると思います。
連射砲のカートリッジ式門管(火管)の装填方法
門管(火管)とは:火薬の詰まった管に雷管が付いたもの(小銃の空砲に似てます)で、連射砲において雷管だけじゃ火力が足りない時、これを薬室に挿入して点火します。これにより雷管から火管内の火薬に引火させてさらに装薬へ火を付ける二段構造になります。
上図の連射砲では後ろから弾丸を装填していますが、もちろん馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)では銃口からの装填です。
(一言:このような弾丸の装填では、地上では敵に阻止されなければ比較的素早く弾丸を装填できるでしょうが、敵陣内での馬上では、ほぼほぼ無理ですよね。)
つぎに馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)で重要なのは、従来型の火縄銃ではなく、火打石を用いたフロントロック式の銃だということです。
以下にのその画像を示します。
フリントロック式銃の構造
フリントロック式銃底部の構造
火縄銃底部の構造
上の画像の中の、Flintが火打ち石で、これが引き金を引くことでFrizzen(フリズン)に激突し、火花が発生して火皿の弾薬(火薬)に着火、それにより銃身内の弾薬(火薬)の爆発を誘発し、弾丸が発射されるのです。
そして以下は
フりントロック式の銃を討つ手順がよくわかる動画を以下に添付しておきます。
フリントロック式の銃の実演
ですがフリントロック式の銃には大きな欠点がり、広くは普及しなかったそうでうです。それは、この銃の最も重要な役目を担う火打石が、高純度のものを必要とするという点でした。
海外では「火縄→フリントロック→メタルカートリッジ」と発展しましたが、日本は幕府による鎖国と実質的な銃規制により、「火縄→タルカートリッジ」と発展した世界でも稀な歴史があります。鎖国中の日本人は新しい銃を生み出そうとはせず、その代わりに火縄の扱いを極めていたので、メタルカートリッジが流入したあとでは、(主要な武器として)フリントロックに興味を示すことは殆どなかったと思われます。
生憎、国内でのフリントロック事情を詳しく記した資料を私は持ち合わせていないのですが、「世界銃砲史/岩堂憲人」には以下の興味深い記述がありました。
”ところで「カロンの日記」には、別に、短いが注目すべき記述がある。それは10月31日の項で、カロンが平戸商館の取り壊しを命ぜられる数日前のことである。この日、カロンは長崎に上使井上筑後守政重が到着したことを知り、歓迎のために謁見したが、その席で筑後守は2年前に前任のクーケバッケルに注文した火縄銃とフリントロック・ピストル(火打石を発火に使用する拳銃)がどうなったかをたずねている。
(ちなみに:築後は現在の福岡県南部で、江戸時代の鎖国政策の中にあって、唯一海外との交易が許された出島もこの地域に含まれ、井上政重が築後守に就任したのは1627年だそうですから、大坂の陣より随分後ですね。)
ヨーロッパにおいて、ヨーロッパでは火縄銃はすでに旧式化しており、井上築後守は銃が火縄式からフリント、つまり燧石(火打石)に発火機構が進歩していることを知って新型の銃を注文していたのであった。
和銃がこのような形態のままであったことには、たしかに鎖国や長期の和平が影響はしていよう。しかし、それらは決定的な要因ではなかったはずである。なぜなら、燧石式の銃がまだヨーロッパにおいても新式の銃として出現してそれほど時間のたっていないこの時期に、幕府の要人は、すでにそれをオランダ人に注文している(カロンによれば紀州候徳川頼宣も同式銃と手榴弾の注文をしているという)のであってみれば、幕府もこの種の銃に対してやはり強い関心を持っていたと考えるのが妥当である。したがって、筆者としては和銃が火縄式のままで幕末まで推移していったということの裏には、幕府の意図が感じられる。それはいうまでもなく、新しく威力の兵器の国内流布への拒否反応により、意図して火縄銃のままにおかれたのであろう、ということである。
そしてそのフリントロック式の新式銃の構造の隠ぺいは、大坂夏の陣において幸村が撃ち損じた後、は戦利品として紀州徳川家が馬上宿許筒を補完した時から始まっていたのです。
(一言:そりゃあ徳川家としてはこんな物騒なフリントロック式の銃の存在が、一般に知られることは、たった一人のスナイパーが存在するだけで、いつ何時将軍が狙われるかもしれませんからね。何しろ、家康はその恐ろしさを、身を持って体験したのですから。)
フリントロック式小銃の構造について - 歴史学 ...- 教え …には以下のような記述があります。
フリントロック式銃の射撃手順は、
1.弾薬嚢からカートリッジを取り出して薬包を噛み切り、弾丸を口にほおばる。
2. コックを一段階引き、当り金を開けて火皿に点火薬(装薬の一部)を入れ、また閉じる。 3.銃身を垂直に置き、銃口から発射薬(残りの火薬)を注ぎ、次に弾丸を挿入する。 4.込め矢を引き抜き、これで装薬と弾丸を銃身の奥まできっちり押し込む。 5.込め矢を元の位置に戻し、コックを最大限に引いて発射装置を整える。 6.射撃姿勢を取り、照門の窪みに照星が来るようにして照準を定め、引き金 を引いて発砲する。 (一言:上に示した動画を見れば分かると思いますが、弾薬は火皿に着火薬としてその一部を入れ、更に銃口から銃身内に残りの火薬を銃口から発射薬として入れなければならず、都合2か所に火薬を入れなけらならないのです。現在の弾丸のような薬莢が無いために。)
薬莢のある現代の弾丸
発砲は、通常は毎分2〜3発です。 実際の戦闘では長時間の射撃戦となるのでこの程度の発射速度が普通なのです。 早く行う場合の毎分5発ぐらい。6発以上だと1発の争点に10秒以下となるので 現実的なスピードとはいえません。 実用というよりも、練習とか”賭け”でできるぐらの速度ですな。 また毎分5発といっても、人間には疲労というものがあるので、 せいぜい続けられるのは数分程度でしょう。 また間隔を空けずに連続発射すると銃身が加熱して持てないほどに熱くなるだけでなく、 12発以上撃つと、これによって暴発しやすくなるため、危険も増します。 だからスピードには自ずから限界があるというものです。 以上のように幸村が家康襲撃に使った馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) は、せいぜい一分間に2〜3発程度で、それが馬に跨り、敵陣へと突入する場合では、1発を発射するのが精いっぱいでしょう。
また、その射程距離は、従来の銃身の長い一般的な火縄銃で50〜60mなのに対して、馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) はせいぜい20〜30mだそうです。
ですがただでさえ銃身が短くて命中率の低い馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) を不安定な馬上から撃つには、10m前後の距離から撃つ必要があったでしょう。
その射撃の間合いは、家康の身辺警護をする武将が数歩進み出れば、その槍先が幸村の馬に届く範囲内であったことは十分想像できます。
ネット上では幸村が家康を今正に討とうとする時に銃を落とすなんて「ドジ。」なんて書き込みも見受けられますが、最新式とは言え馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)の射程距離 は、長槍のそれと大した差は無かったとも言えるのです。
ドラマ上では馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) が利休の茶室跡の畑から、箱に入って2丁出てきたのですから、ツーハンド、つまり二丁拳銃(にちょうけんじゅう、二挺拳銃とも書かれる)で家康を襲撃していれば、あるいは家康を仕留めることができたかもしれません。
ですが敵陣に斬り込むためには、左手に銃を持ちながらも、右手には刀を持っていなければ、敵兵の切先をかわすことはできなかったとも考えられます。
(一言:あっ、そうか、馬の手綱も引かなければならないのですね。)
果たして『NHK大河ドラマ 真田丸』における終局では、幸村の家康本陣への襲撃はどのように描かれるでしょうね?楽しみです。 |
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>連射砲のカートリッジ式弾丸の装填方法の図
それ装薬点火用の火菅の事じゃないでしょうか・・・
2018/5/21(月) 午後 8:34 [ モブ男1 ]
モブ男さん
ご指摘ありがとうございます。
調べ直してみるとそのようですね、なので「連射砲のカートリッジ式弾丸の装填方法の図」を「連射砲のカートリッジ式門管(火管)の装填方法」と書き換えました。
2018/5/23(水) 午前 2:44 [ 上から目線 ]