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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:幸村の正室 春と娘 うめ(阿梅)は大坂夏の陣以後どうなったか
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編          
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大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、大坂夏の陣において豊臣方が前哨戦である樫井の戦い・伊達軍と戦った道明寺の戦い・徳川本隊と戦った若江・八尾の戦いにおいてことごとく敗北し、塙団右衛門・後藤又兵衛・木村重成らが討死するに至り、幸村(信繁)は正室:春(竹林院)と娘:うめ(阿梅)の身の安全を伊達政宗に託す決断をしました。



これは、春(竹林院)や娘:うめ(阿梅)の大坂夏の陣以後を伝える記述にある程度合致するものです。

ではその現時点で史実とされる、春(竹林院)や娘:うめ(阿梅)のその後とはどのようなものだったのでしょう?

第49回放送『前夜』では、春とうめは幸村(信繁)が存命だった伊達軍との交戦直後に、伊達政宗との密約により、政宗のもとに引き取られたように描かれましたが、ウィキペディアなどにおいて史実とされる記述では、幸村(信繁)の死後、つまり大坂夏の陣で炎上する大坂城から逃れた春とうめは、別々に徳川方の武将に引き取られています。
まずは春(竹林院)ですが、
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では夫と共に大坂城内に拝領した屋敷に入りますが、慶長20年(1615年5月7日大坂夏の陣で信繁が戦死すると、子女を連れて大坂城から落ちのびますが、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟の捜索により、5月19日に紀伊伊都郡で、幸村(信繁)の4女あぐりと共に3人の(豊臣方の)侍に警護されて隠れていたのを発見され、5月20日に京都の家康に引き渡されます。
幸村(信繁)が豊臣秀頼から拝領し、大坂入城直前に渡されていた来国俊の脇差と黄金57枚は没収となり、長晟に下賜されてしまいますが、赦免され剃髪します。
その後石川貞清に嫁いでいた幸村の7女おかね保護を受けたらしく、その後は京で暮らし、慶安2年(1649年)5月18日に京都で死去します。
あれっ、うめに関する記述がありませんよね、ご安心下さい。この後にご紹介しますので。

実はうめ阿梅おうめ真田幸村(信繁)三女です。
おかねによれば、阿梅は妹:おかね、阿菖蒲、兄・大八とともに片倉重綱の保護を受け、白石城に身を寄せていました。
うめ(阿梅)第49回放送『前夜』では春(竹林院)の娘として九度山で生まれたように描かれていますが、
阿梅 - Wikipediaによれば、
母は高梨内記の娘、または大谷吉継の娘・竹林院の説もあり、信濃で生まれたとされます。
通説では、享年78から逆算して慶長9年(1604年)生まれとされていますが、信繁の九度山時代の生まれとなってしまい、信濃で生まれたとする『左衛門佐君伝記稿』の記述と一致しないことを疑問視し、菩提寺の当信寺の位牌には享年83とあることから逆算すれば、慶長4年(1599年)生まとなって、信繁が信濃上田城にいた頃の誕生となり、この説を正しいとしています。
慶長19年(1614年)、父・信繁に従い大坂城に入城。
翌慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で大坂城が落城すると、その後の混乱で仙台藩の家臣・片倉重長の兵に乱取り(戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。)され、同家の侍女として召し抱えられます。
しかし、後に信繁の娘であることが判明し、元和6年(1620年)に重長の側室となります。更にその後重長の正室が死去すると継室に収まったのです。
一言:普通ならば売り飛ばされるか、奴隷にされるはずのうめが、真田幸村の娘だと知れたことで、伊達政宗の重臣の継室にまで出世するとは、なんという強運でしょう。)

大坂夏の陣において、片倉重長が阿梅を連れ帰った経緯については、落城の混乱に際して乱取り(生け捕り)したとするものと、幸村(信繁が片倉重長を見込んで託したという話があるそうです。
一言第49回放送『前夜』では、どちらかと言えば信繁が片倉重長を見込んで託したという話をもとに描かれたのでしょうね。)
重長はうめ(阿梅)を滝川某の養女にする手続を踏んでから正式な妻としたといい、信繁の妹婿・滝川一積の養女となり、滝川家から片倉家へ嫁いだという説や、
信繁の姉婿・小山田茂誠が養女に迎えて、小山田家から片倉家へ嫁いだという説もあるそうです。
この場合、重長が継室とするに際して、真田信繁の娘だと徳川幕府に察知されてば、うめ(阿梅)の身柄や片倉の家も、危ぶまれるため、これを隠すために小山田茂誠の養女とする工作を依頼したことは十分に考えられます。
その後、弟の大八(片倉守信)、妹の阿菖蒲(片倉定広室)も、姉の縁により片倉家に身を寄せますが、重長とうめ(阿梅)の間に子は生まれず、前妻の娘の子・景長を養子として家督を継がせたそうです。

慶安元年(1648)、うめ(阿梅)は白石城下に月心院を建立し、父の菩提を弔いました。
また、功徳山当信寺浄土宗)においても、父・信繁と竹林院の供養を行っています。
一言:うめは亡き父への慕情と共に、父:幸村の娘であったために、戦場で乱取りされた身でありながら、売り飛ばされることや、奴隷にされることもなかった事を、深く感謝して菩提を弔ったのでしょうね。
そしてうめ(阿梅)は延宝9年に没します。
法名は泰陽院殿松源寿清大姉。片倉氏2代の菩提寺である当信寺に墓所があり、如意輪観音像を墓標としたものだそうです。
しかしどうした加減か、後年になってこの墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まり、うめ(阿梅)の墓石は原型を留めていないそうです。
一言:御利益があるとは言え、石の粉ですよ、仮に御利益があったとしても、体には悪いですよね。と言うか、墓を削って口にするなんて、罰当たりもいいとこですよね。)

『片倉代々記』によると、阿梅は大坂城の落城に際して片倉重長が戦場で得た、つまり乱取りされたという。当初は出自が分からず、侍女として召し使っていたが、その後真田信繁の娘と分かり、後に継室に迎えたという。『白川家留書』にも乱取りされたとある。
託されたとする話は、俗伝であるが、広く知られている内容はおおよそ以下の通り。
慶長20年5月6日の誉田の戦いにおいて、伊達隊の先鋒であった片倉重長は、真田隊と激しく戦った。その時の武者ぶりが敵ながら天晴れであるというので、信繁が重長を見込んで、落城の前に阿梅らを送り届けてきたというものです。
これは片倉家の初代と2代についての話をまとめた『老翁聞書』にある話が元になっており、そこでは以下のように書かれている。

 一 大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり。後その家来のもの尋来りて、臣下となる、真田左衛門佐幸村の息女とす。寄手諸将の中に片倉兼ての英名、殊に此度目を驚す、武功の事なれば末繁昌ならん事を予め斗り、容色万人に勝たれる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと、幸村申仕置重綱公の陣の前へ、物し出したるならんと、皆いへりけるとなり。 — 老翁聞書

『老翁聞書』の内容を要約すれば、 阿梅は身分を名乗らずに自主的に投降しただけだが、この偶然を人々は、片倉の武名が世に広く知られていたことから、同様に日の本一の兵(つわもの)と称されるほど武名の誉れ高い信繁は、「この武将ならば」と託したと都合の良いように解釈したということのようなのです。

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幸村(信繁)の3女うめを演じる大出 菜々子(おおで ななこ)さん
大出 菜々子(おおで ななこ、2000年2月23日 - )さんは日本の女優、子役京都府出身。サンミュージックブレーン所属。
サンミュージックアカデミー大阪校出身(第26期生)。
身長158cm。体重43kg。B77cm、W62cm、H82cm。靴22cm。
趣味は音楽鑑賞(洋楽、K-POP)、読書。
初主演を務めた映画『茜色の約束 サンバdo金魚』の塩崎祥平監督は「とびきり上品な子なんだ」と評している。

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