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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:幸村は政宗にどのような密約を交わし、妻子の命を託し得たのか
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編          
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前ページでは、大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』において、幸村(信繁)が正室:春(竹林院)と娘:うめ(阿梅)の身の安全を伊達政宗に託す決断をしたことを取り上げ、春とうめがその後どのような半生を歩んだかをご紹介しました。







ですが第49回放送『前夜』において、春と共に伊達政宗を頼って行ったのは、うめ(阿梅)だけだったでしょうか?ちがいますよね。
そうです、春の胸に抱かれていた赤子がいましたよね、その名は真田大八、幸村(信繁)の次男です。
大八が生まれたのは1612年、1615年の大坂夏の陣の時、大八はまだ3歳でした。
ドラマの中では春に抱かれた大八を見て伊達政宗が愛おしむように「大八、大八。」と呼んでいましたね。

ドラマで描かれたままに語るなら、幼くして父:幸村(信繁)を亡くし、訳もわからないまま母や姉と共に伊達政宗に連れられて東北の地に向かった大八。
一言:春とうめについては、前回のページで実際にはそれぞれ個別の経緯で落ち延びたことを記しました。)

果たして大八は、東北の地でどのような人生を生きたのでしょうか?

その事を記す前に、皆さんはドラマを見ていて、なぜ伊達政宗は幸村(信繁)の妻や子を引き受けたのでしょうか?と疑問を持った方はおられませんか?

そうした疑問を持って思いをはせる時、独眼竜と呼ばれた戦国武将が、単なるお人良しだったとは思えませんし、男気だけで幸村(信繁)の妻子を引き受けたとも思えません。
たぶん幸村(信繁)から政宗にとって何がしか利のある条件を提示され、妻子を引き受けたのではないのか?と下衆(げす)の勘繰りをしたくなります。

そして折よくこの疑問に答える番組がBS放送で見ることができたのです。
その番組名は古地図で謎解き!♯60 「大坂の陣『真田丸と伊達政宗』秘密の真相 なぜ伊達家は信繁の子孫を守りきったのか?です。

いったい幸村(信繁)は政宗にどのような条件を提示して、妻子を引き受けてもらったのでしょう?

その交換条件とは、幸村(信繁)の?いや父:昌幸にとっても、生涯を掛けた悲願であり、その事を叶える事は、伊達政宗にとっても夢を叶えるためには避けて通れないものでした。
ですが結果として、幸村(信繁)も昌幸も政宗も成しえなかったのです。

何だと思います?・・・・天下人?違いますよね、政宗は天下を望みましたが、幸村(信繁)や昌幸は一度として天下を望んだことはありません。
昌幸は、真田一族の繁栄とそのための領地としての小県を核とする信濃の地を真田の郷として安堵されることを終生願い、
幸村(信繁)は父:昌幸の無念を晴らすことと、豊臣家に対する恩義に報いることを生涯のものとして生きました。

以上のように天下を望んだ政宗と、幸村(信繁)や昌幸らの願った真田一族の思いは、一見すると相反する悲願であったといえますが、それでもそれぞれの思いを叶えるためには、共通する避けて通れないものがあったのです。

もうお分かりですよね、それぞれの思いを叶えるために障害となるもの、これを打破することこそ、彼らに共通するものだったのです。

もったいぶり過ぎましたが、お答えしまそう。答えは、『家康を討つ』ことです。

どうです?家康を討つことは、昌幸の願いも、幸村(信繁)の願いも、ひいては政宗の願いをも叶えることになりますよね。

ですが幸村(信繁)が妻子を政宗に託すにあたって提示した、『家康を討つ』という約定は果たせませんでした。
ですがそれでも政宗をはじめとする伊達藩は、後々までも真田幸村(信繁)の子孫を庇護し続けたのです。なぜでしょう?

なるほど確かに幸村(信繁)は、大坂夏の陣において家康を討つことは出来ませんでした。
ですが幸村(信繁)が二度に渡って家康を死地に追いやり、家康もまた死を覚悟したというのもまた事実です。
その事を知り、痛快に思った政宗は、「奴は俺には到底出来ない事をやってのけ、家康に死を覚悟させた。それで十分。」
政宗はそうした思いをもって、幸村(信繁)の子孫を最後まで庇護する事となるのです。
たぶんね。

話を長引かせてしまったので、真田大八についての話は次回にしたいと思います。

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江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、江戸時代に「眞田三代記」が流行り、眞田幸村が人気となると、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で「眞田十勇士(眞田三代記がもとだが、猿飛佐助や霧隠才蔵などが登場し、講談師による完全な創作)」が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、「子供5人の保護説」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。最近、真田徹は「眞田幸村の子供5人を保護する代わりに、徳川家康を討ち取るという眞田幸村と伊達政宗の密約があった」と言い出したが、根拠となる古文書はもちろんなく、作り話の言い伝えもなく、論拠すら示していない。

2017/10/9(月) 午前 9:16 [ 幸村薩摩落ち伝説の作者 ]


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