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〜真田丸:道明寺の戦いではドラマとは違い、又兵衛が幸村の意見を聞かず〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、
豊臣方の読みでは、家康本隊が東より大和路を進軍してくると読み、大坂城を攻めるには最も攻めやすい南部からの攻撃に備え、大坂方は天王寺まで軍を進めて敵を迎え討つことにしますが、もしも東側から攻めて来れば背後を突かれるとの懸念から、幸村はそこを流れる平野川の堤を幾つか切っておくことで、その一帯を沼地状態にして徳川が攻めにくくすることにします。
開戦を前にして家康は、今一度豊臣に対して「大和の郡山城に兵を引き、今すぐ浪人を追放すれば兵を引く」と通告するよう命じますが、将軍:秀忠は、「秀頼がいるかぎり徳川の安泰はありませぬ、父上は甘すぎる。」と家康の豊臣に対する譲歩する考えに対して激しく抗議します。
戦前夜、木村重成は後藤又兵衛のもとに現れ、「後藤様には色々と学ばせて頂きました。お会い出来て光栄でした。」と語ります。
しかし又兵衛は重成の言葉を快く思わず、重成の側に歩み寄り「二度とそういう事を言うな。・・・戦前にそういう事を言うとな、必ずどっちかが死ぬというのがお決まりなんだ。」とたしなめますが、そこである事に気づきます。
「ああん?クンクン、お前何かいい匂いがするな。」と語ると、
重成は、「万一首をとられた時に、恥ずかしくないように兜に香を焚きしめておりました。」
これを聞いた又兵衛は、「ハハハハハッ、つまらねえ真似をするんじゃねえよ、早く持ち場へ戻れ。」と笑い飛ばします。
この時又兵衛と重成は、既に死を覚悟していたのです。
かくして決戦の当日、奈良大和路を伊達政宗率いる3万5000が、又兵衛らの待ち受ける道明寺へ、
結果、道明寺の戦いでは幸村らの到着を待たずに夜明けと共に又兵衛は先手を打って出、壮絶な死を遂げました。
道明寺の戦いについては以前〜大坂夏の陣:幸村が遅刻した道明寺の戦い〜にもにおいて記しました 。
4月30日
(道明寺の戦いの詳細①)
徳川の進軍が間近になった大坂城では豊臣家上層部と浪人の間でどうやって対処するかが話し合われました。
真田幸村は大坂城南の四天王寺辺りで終結した徳川軍を迎え撃つことを主張しますが、
〈後藤基次〉は、敵は大和路から大坂城南を目指してくるだろうから、亀瀬・関屋の隘路を抜けてきた徳川軍を国分辺りで叩く。山地の狭いそこを利用すれば十中の内、七・八は勝つだろう。
先頭を破れば、後ろの隊は郡山に退くはず。その後のことはまたそこで考えれば良い」と譲りません。
結局は冬の陣で〈基次〉から真田丸の陣地を譲ってもらった幸村が〈基次〉に合わせることにし、国分方面への出撃が決ります。
(旧一言:〈基次〉は、少数の出鼻を挫いて後方の大軍を退ける作戦、幸村はあえて集結した徳川軍を混乱させ、その混乱に乗じて家康らを討つ作戦だったのでしょうが、もともと浪人が大多数を占める寄せ集めの豊臣軍が各個戦場となる離れた地にて共同戦線を張るほどの連携は、どだい無理があり、戦線が長引けば長引くほど豊臣方が不利になることは間違いないところでしょう。やっぱり大将の首だけを狙う幸村の作戦の方が良かったのかな?)
(新一言:ドラマで描かれたように、幸村と又兵衛が相談の上で又兵衛が先行し、後詰めで幸村が出陣したのではなかったのです。ちなみに、基次=又兵衛です。)
5月1日
(道明寺の戦いいの詳細②)
国分方面へ向かう豊臣軍の第一陣は、〈後藤基次〉ほか約6400の兵が出発。平野(ひらの)を目指しました。続いて第二陣の真田幸村・〈毛利勝永〉・〈福島正守〉・などの約12000が出発。天王寺を目指しました。
(一言:幸村は〈基次〉の案に乗って、国分に向かったはずなのに、第二陣としてやっぱり自身の案にあった天王寺へと向かったのですね。先鋒を叩くだけなら基次だけで大丈夫と、〈基次〉に花を持たせるためだったのでしょうか?それともやっぱり不服だったとか?)
(道明寺の戦いの詳細③)
幸村と〈毛利勝永〉の二人は〈基次〉の陣を訪れ「道明寺で合流し夜明け前に国分を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃ち、3人が死ぬか両将軍の首を取るかどちらかになるまで戦おう」と誓い、訣別の盃を酌み交わして別れます。
一方、〈水野勝成〉を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊約3800は、午後4時には国分について宿営します。この時、国分の先の小松山に陣を置くのが良いと諸将は主張しますが、〈勝成〉が「小松山を陣地にすれば敵襲を支えることは難しい。それよりもこのまま国分に陣を敷き、もし敵が小松山を取ったのなら、回り込んで挟み撃ちにしよう」と言い、陣を置きませんでした。
夜になると、〈伊達政宗軍〉10000、〈本多忠政軍〉ら5000、〈松平忠明軍〉3800が到着。〈政宗〉は家臣の〈片倉重長〉に命じて小松山の山下に一隊を伏せさせ、兵には夜通し警戒させています。 この頃、この方面の後列である〈松平忠輝軍〉12000はまだ奈良にいました。
(一言:小松山の地形的特徴については、現在の様子を道明寺合戦古戦場訪問記①【又兵衛はなぜ幸村を待てなかったのか ...で詳しくレポートしていますので是非ご覧下さい。
こちらの管理人さんの記述によると、小松山は玉手山一号墳という円墳で、この小松山の隣も2つほど尾根伝いに古墳があり、尾根の端っこの部分が小松山だそうです。
〈後藤基次〉の考えとは異なり、真田隊と合流するより先に徳川方の先鋒である〈水野勝成〉が国分に着き、更に悪い事に援軍の〈伊達軍〉まで先着していたのですね。勝成はあえて小松山に陣を置かず、〈伊達軍〉は小松山下に兵を伏せて豊臣軍を待ち構えいました。豊臣方の〈基次〉は大誤算をし、徳川軍は、豊臣軍を待ち構えていた訳です。)
5月6日
道明寺の戦いで、〈後藤又兵衛、薄田隼人〉らが討死します。〈後藤又兵衛〉を討ったのは、〈伊達政宗〉の軍です。その後遅れて到着した幸村が、〈伊達隊〉と交戦します。
河内若江の戦いにて豊臣方の〈木村重成〉が〈井伊直孝〉と戦い討死。享年23歳。真田幸村は殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指す。後備え、殿〔しんがり〕ともいう)を務めて大坂城へ退去します。〈基次〉は享年56歳、〈薄田兼相〉は享年不詳です。
(道明寺の戦いの詳細④)
午前0時、〈後藤隊〉2800は平野を出発し、夜明け頃には藤井寺にいました。そこで真田隊らが来るのを待ちますがまったく来る気配がありません。実は真田隊らは濃霧のために時刻を誤った上に、寄せ集めの浪人が大半で行軍に慣れていなかった為、大幅に到着が遅れていたのです。戦機を逸すると感じた基次は待つのを止め出発。誉田経由で道明寺に出ます。〈基次〉はここで初めて、すでに徳川軍が国分まで進出していることに気づきます。そこで〈後藤隊〉は石川を渡ると、小松山を占領。午前4時頃、片山村方面から攻撃を開始します。
一方の徳川軍も午前2時頃、藤井寺方面の〈後藤隊〉を発見。未明に〈奥田忠次軍〉は小松山に登ろうとしたところに、〈後藤隊〉と衝突。銃撃戦の後に槍での戦いとなる。ここで忠次は戦死します。
〈後藤隊〉は続いて北から攻撃してきた〈松倉重政軍〉と衝突。〈松倉隊〉は〈後藤隊〉の〈平尾久左衛門〉ら200を討ち取る奮戦をしますが、逆に〈松倉軍〉も力尽き全滅しかけます。そこへ〈水野勝成・堀直寄〉が援軍として駆けつけた為、なんとかそれは免れます。〈後藤隊〉が山を下り銃撃を開始すると、〈伊達軍〉は伏せていた〈片倉重長隊〉を起き上がらせ、銃撃戦となります。午前9時頃、〈伊達政宗本隊〉も小松山に登り攻撃を始めます。〈松平忠明隊〉も東からの攻撃を開始し山を登り始めます。
(一言:これで〈後藤基次隊〉は徳川軍に完全に取り囲まれてしまいました。)
その徳川軍の猛攻撃で〈後藤隊〉の先鋒は壊滅。〈後藤隊〉は数度に渡り徳川軍を撃退し、70〜80人を倒しますが、三方向から迫る10倍近い敵を相手では、どうにもなりません。もはや勝ち目がないことを悟った〈基次〉は「死にたくない者は今から去れ」と言ったそうですが、〈基次〉を慕う兵達はほとんどがその場に残ったと言われます。
〈後藤隊〉は最後の戦いをしようと西に下って平地に出ると隊を二つに分け、徳川軍に突撃を開始します。決死の覚悟の〈後藤隊〉は敵の1〜2隊は打ち破ったものの、〈丹羽氏信軍〉に側面を攻撃され混乱します。分断された〈後藤隊先鋒〉は隊を整えようとしますが、伊達軍の数千もの鉄砲隊の射撃で壊滅してしまいます。 〈基次〉自身も兵を収めようと先頭に立ったとき、〈伊達軍〉の鉄砲隊に胸を撃たれてしまいます。近くにいた〈金方某〉は彼を連れて去ろうとしますが重くて動きません。死を覚悟してこの戦いに挑んだ〈基次〉は逃げようという気はなく「首を刎ねろ」と命じます。〈金方〉は仕方なく〈基次〉の首を刎ねると陣羽織に包んで土に埋めました(〈吉村武右衛門〉という説もある)。 (一言:徳川方の〈水野勝成〉は、小松山に陣取って孤立するのを恐れ、〈後藤基次〉の道明寺で合流し夜明け前に国分を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃つというもくろみに反し、〈水野勝成〉を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊約3800は、午後4時には国分について宿営していたのす。そして、いずれ真田隊が援軍に来てくれると信じて小松山に陣取ったのでしょうが、待ち伏せはいるは、幸村らの援軍は無いはで、討死したのです。)
正午になると徳川軍は、壊滅した〈後藤隊〉が道明寺方面に退却するとそれを追って川を越え追撃を開始します。
(一言:この時点で豊臣方の第一軍はほぼ全滅。その気は無くとも、結果的には幸村隊は〈基次隊〉を見殺にしたことになります。〈基次〉が真田隊を待たなかったことが敗因と思われるかもしれませんが、〈伊達軍〉の数千もの鉄砲隊に、遅かれ早かれせん滅させらたに違いありません。)
〈薄田兼相・井上時利・山川賢信〉らの豊臣軍の第二軍が道明寺に到着し、〈後藤隊〉の敗残兵を収容し、それと同時に追撃してきた徳川軍と激突。〈薄田兼相〉は誉田で〈水野勝成軍〉と戦い奮戦しますが、討死します。〈井上時利〉も徳川軍の〈秋山右近〉を倒したものの、討死。
その他の諸隊は不利を悟り、道明寺から誉田の森まで撤退しました。
(一言:この時点で豊臣方の第二軍はほぼ全滅。幸村隊も第二軍の一隊なのに。)
〈後藤基次隊〉が壊滅し、〈薄田兼相・井上時利〉が討死した午前10時頃、やっと豊臣軍の第三軍として〈毛利勝永隊〉が藤井寺村に到着します。単独での戦闘は撃破されるだけだと判断した〈勝永〉は、真田隊の到着を待ちます。
午前11時、真田隊がようやく到着します。真田隊は〈渡辺糺隊〉と合流すると、〈毛利隊〉の右をすり抜け、苦戦している第二軍の〈北川宣勝隊〉の救出に向います。幸村は〈北川隊〉を救出すると徳川軍の追撃に備え隊を整え敵を待つことにします。
(一言:幸村はん、いくら霧が濃かったからと言って、遅刻するのにもほどがあるでしょう。戦略に長けた武将も、方向音痴ではシャレになりません。わざと遅れたと取られても弁解できませんよ。)
これを見た〈伊達隊〉の先鋒・〈片倉重綱〉が、どの隊に向かうべきかと家臣に聞くと、その中の一人・〈丹野某〉が「真田隊の中に〈伊達家〉から大坂に入城したものがいます。ので、そちらを討たせて下さい」と願い出ます。それを許可した〈重綱〉は〈伊達家〉自慢の騎馬鉄砲隊を真田隊にぶつけることを決めます。
(一言:〈伊達家〉から豊臣方へと寝返った裏切り者が真田隊にいたのですね。)〈重綱〉は騎馬と歩兵の混合部隊を二つに分け突撃させ(この中に騎馬鉄砲隊が含まれている)、鉄砲隊を左右に展開し射撃させます。そこで幸村は正面から突撃してくる部隊には、兵を折り敷かせ敵が接近してから一斉に攻撃させ、左右の鉄砲隊にはこちらも鉄砲隊で対抗します。
そのうち両軍入り乱れての戦いとなり、幸村の息子・真田幸昌(大助)や〈渡辺糺〉が負傷するなど激戦となりますが、結局、〈重長〉が兵を退きます。 それを見た真田隊は追撃をかけますが他の〈伊達軍〉の部隊が援護に来たため、真田隊も西に兵を退きます。
(一言:幸村は長篠の戦いで織田信長が武田信玄の騎馬隊をせん滅した戦法を使ったということでしょうか。)
これが午後2時ごろで、豊臣軍に八尾・若江の戦いで味方が敗北したので、急ぎ城へ戻るようにという伝令があったため、諸将は話し合いのに末、撤退を決め、午後4時頃、大坂城への退却を開始します。
これを見た徳川軍は追撃するかどうかを話し合います。〈水野勝成・松平忠輝・一柳直盛・本多忠政〉などは追撃を主張したが、〈伊達政宗〉は「我が隊は朝からの戦闘で疲れている。追撃は不可能だ」と断固として追撃を拒否。そのため追撃には至りませんでした。
真田隊は諸隊を退却させた後に、悠々と引き上げていったといいます。
(一言:〈正宗〉は真田隊との銃撃戦を見て、追えば幸村の術中に堕ちるとみたのでしょう。真田隊以外の有力武将はほぼせん滅したので、これ以上家康に忠義を尽くし兵の損失を大きくしても、意味が無いと思ったのでしょうか?ドラマ上では幸村と政宗との間にすでに密約を交わしていたために悠々と幸村は引き上げることができたかのように描かれていましたね。正宗にとっても、家康は好ましい存在ではなかったのですから。)
豊臣軍は追撃に備え〈毛利隊〉の一部を残し、付近の民家を放火して撤退します。この時、八尾・若江の戦いで大坂城近くまで豊臣軍が出張ってきていたため、本道が使えず支道を使って大坂城に戻ったといわれます。この戦いでの徳川軍の死者は180名・負傷者は230名でした。一方の豊臣軍は死者210名でしたが、勇将を多数失った豊臣軍は、徳川軍とは比べ物にならないほどの大打撃でした。
(一言:遅刻はいかんよ、幸村はん!〈後藤基次〉との合同戦線が出来ていたなら、道明寺の戦いだけでも豊臣方が勝利していたかもしれないのに。こんな言い方をすると、幸村ファンに総攻撃をかけらるかもしれませんが、これで大将格が殆ど死んで、結果的には他の武将に邪魔されることなく幸村は、家康の首を狙うことに専念できるようになたのです。)
5月5日 (家康・秀忠の出陣)
徳川家康・秀忠父子が十二万余の軍を率いて京都を出陣し河内星田に着陣します。
その際、家康は自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたといいます。
豊臣方の将:〈木村重成〉が入浴の際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせます。(一言:現代人の感覚で言えば、出陣する前に入浴し、その際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせるなど、「〈木村重成〉ってナルシスト?」なんて思う人も多いことでしょう。ですが、時代劇などでも、武士が切腹するおりは、部屋でお香を焚き、身を清めた上で白装束となり、白木の三方に乗った諸刃の短刀の柄部分を和紙で包み、あいた三方をお尻に敷いて、仰向けに倒れて醜態を晒さないようにしてから自害するというシーンがよく見られます。お香は血の匂いを消すものです。つまり〈重成〉の入浴して兜に香を焚き込めさせた上での出陣は、敵に首を討たれることをいとわぬ並々ならぬ覚悟で出陣した事を物語っています。ちなみに〈重成〉は幼少から豊臣秀頼の小姓として仕えたといわれ、秀頼の信頼が厚く、豊臣家の重臣でした。大坂冬の陣では〈後藤基次〉とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い、その名は天下に知られるようになります。真田丸の戦いにも参加し、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞賛されます。夏の陣にて打たれた〈重成〉の首実検で、その首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったことで、家康はその覚悟に感嘆したたという逸話が残っているそうです。)
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