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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:木村重成らが奮戦した八尾・若江の戦いは徳川の圧勝ではなかった
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編          
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、幸村らは家康率いる徳川の本隊は奈良大和路より攻め込んで来ると考えていたために、奈良・大阪の境界にある生駒山を挟んで奈良大和路と平行するようにある大坂側の東広野街道には、秀忠軍が進軍して来ると見て、長曾我部盛親と木村重成らがこれを迎え討つこととします。
ところがこうした豊臣側の動きを内通者(台所頭 大角与左衛門)を通じて知った家康は、秀忠と共に本隊を東広野街道から進軍します。
果徳川本隊と木村・唐曾我部隊は、若江・八尾でぶつかります。
戦いでは木村重成が討たれ長曾我部盛親はもはやこれまでと逃亡します。

豊臣方は、大坂城大坂冬の陣ののちをすべて埋められてしまったため、夏の陣ではを出て戦わざるをえない状況になっていました。
幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。河内方面隊は藤堂高虎井伊直孝を先鋒とし本多忠朝前田利常松平忠直など総勢55,000の兵で構成されており、立石街道から道明寺へ向かっていた。そのあとに徳川家康秀忠ら本隊が続いたのです。
一言:家康・秀忠は、自らが先頭に立って軍を率いていたのではなく、大軍の先鋒隊の後に隠れるようにして進軍していたのですね。)
一方の豊臣軍では、5月2日に河内口から来る幕府軍に対し、大坂城東方、大部隊の機動には適さない低湿地帯で迎撃することにし、木村重成の兵6,000が大坂城を出発します。
一言:この記述を見る限り、ドラマで描かれたように幸村の作戦で平野川の堤を何か所か切って湿地帯にしたのではなく、もともと低湿地帯があったのですね。)
加えて長宗我部盛親増田盛次の兵5,300もそのころに出発したらしいのですが、豊臣方は木村・長曾我部などの両軍を合わせても11,300で、徳川の先鋒隊55,000に遠く及びません。

5月5日、木村重成は大坂城の北側にある今福方面を視察し、こちらに幕府軍が来襲する可能性は低いと見ます。
そこで徳川家康・秀忠本営に側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。
5月6日、木村重成は午前0時頃には出発したいと考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。途中道を間違え沼地で立ち往生するなど、木村自身や兵の練度に問題があり、進軍は順調にはいかなかった。
一言:ドラマでは、徳川勢のみが実戦を知らない兵が大半だったように描かれましたが、豊臣勢の兵にも実戦なれしていない兵が多く存在していたのですね。)
一方徳川勢は、午前1時、井伊直孝は部隊に命令して食事させ、進軍の命を待たせたます
午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見した。幕府軍は勝手な戦闘は慎むよう命令されていたが、藤堂高虎は良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言をうけ開戦を決断、各隊に進撃を命じたのです。
一言:この藤堂良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言は半分当たっていて、半分ハズレていますよね。つまり、確かに豊臣勢は家康・秀忠の本隊への攻撃を企てていましたが、その役目を担っていたのは、この若江に進軍していた木村重成らの軍ではく、道明寺へと進軍した後藤又兵衛・真田幸村らの軍が本隊でしたから。)

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八尾・若江の戦い

八尾の戦い長曾我部盛親の戦い
萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒吉田重親は、藤堂勢中備藤堂高吉の攻撃をうけて応戦しますが壊滅、吉田も戦死する中、本隊に対し攻撃を受けていることを長曾我部本隊に伝令を出します。
藤堂高刑桑名吉成は東広野街道を進んで道明寺へと向かう徳川本隊の中でも藤堂隊の左先鋒として最も先頭でしたが、右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見したとの伝令を受けて急きょ転進、玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫り、高虎の旗本藤堂氏勝もそれに続きます。

こうした徳川勢の進撃に対し、壊滅した吉田重親からの伝令を受けていた長宗我部盛親は、長瀬川で迎撃の体勢を整えます。
騎馬武者もすべて下馬させ、を持たせて堤防の上に伏せ、藤堂勢の進軍を待ち、藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせます。
これにより 藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は負傷、退却中に死亡します。その後藤堂高吉も来援しますが、長宗我部勢はこれを圧倒し、撃退します。
こうした戦闘は正午頃まで続き、小康状態になったところで長宗我部勢は長瀬川堤で陣を整え、休息していたところへ、若江の木村重成が敗れたとの報が届きます。
敵中での孤立を恐れた盛親は直ちに大坂城へと撤退したのです。
一言:ドラマでは木村重成の討死を知った盛親は、家臣の制止を振り切って大将だけが逃亡したかのように描かれましたが、実際には盛親の判断により長曾我部隊壊滅の危機を避けるための行動だったと言えます。)
若江の戦い木村重成の戦い
午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えていた所へ、その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけますが、藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死します。
 その後木村勢は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃する戦略をとります。
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させます。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列です。
川手勢は、玉串川東側堤上から玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置していた木村勢を発見し、一斉射撃後、敵に突入します。
玉串川の西堤上にいた木村勢は堤の西に後退し、堤の両岸は井伊勢が占拠します。
川手勢はさらに木村勢に突進しますが、結果的に川手良列は戦死します。
しかしそこに庵原勢も加わり激戦となります。
木村重成は自身も槍を取って勇戦しますがやがて戦死し、山口弘定内藤長秋も戦死となり木村本隊は壊滅します。
ですがこのような豊臣・徳川両軍が激戦を繰り広げる中、ずるく立ち回る奴は何時の世にもいるもので、それまで戦闘を川の向かう側から傍観していた幕府軍の榊原康勝丹羽長重らは、味方有利と見てから進撃し、木村勢左先手木村宗明を攻めます。
宗明は本隊が敗れたため大坂城へと撤退します。

八尾・若江の戦いによるその後の影響
藤堂勢および井伊勢はこの戦闘で大きな被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえなくなり、この八尾・若江の戦いに参戦せず、戦闘を傍観していた松平忠直は、家康に叱責されます。結果的に、これが翌日の天王寺・岡山の戦いでの抜け駆けの誘因になったといわれる。
一言:松平忠直にしてみれば、勝手な戦闘は慎めという命令を素直に守っていたと言えるのですが・・・・。) 一方の豊臣方は、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかったことからも、長宗我部盛親は八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅状態だったと考えられます。

以上のような八尾・若江の戦いを分析すると、 当時の大坂は、大坂城のある上町台地の東側が、古代には河内湖という海へとつながる巨大なな内陸湖でした。 湿地帯の中に延びた小道の意味の「」という言葉があります。 戦国時代には、かつて河内湖だった大阪の東側一帯も陸地となっていましたが、古代の湖の名残を残した広大な湿地帯が広がっていたようで、現代においても四条と言われる地名が残ります。
従って八尾・若江の戦いは低湿地帯で行われたため、自ずと各種足軽鉄砲)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などで構成され、独立した作戦行動を採れる基本単位である単位での戦闘が中心となり、結果として消耗戦とも言うべき経過をたどりました。
また、榊原康勝・丹羽長重らが事態を傍観したのも、畦道を木村宗明に固められ迂闊に手を出せば、その昔両軍が大軍を持ちながら畷という特殊な戦場であったがために小隊による消耗戦を強いられ、両軍共に多くの犠牲を出した沖田畷の戦いの様な展開になることを恐れたためだとされます。
事実、無理に突撃を敢行した井伊勢は勝利こそ収めたものの、大損害を被っています。
ですがこうした徳川方の各陣営の対応は、後に井伊家は徳川家筆頭の地位に上り詰めたことからも分かるように、戦後の家康による評価に大きな影響を残しすこととなったようです。

ということで、八尾・若江の戦いにおいて5月5日 に京を出陣した家康・秀忠本隊が係ることはありませんでしたが、5月5日 に家康・秀忠の本隊が十二万余の軍を率いて京都を出陣し、河内星田に着陣した際、家は自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたと言います。
一言:つまり家康は、冬の陣の後に濠と真田丸をことごとく排除した大坂城に残る豊臣方など、もはや何一つ恐れる要素のない存在であり、アリの群れを踏み潰すが如く容易いことと侮っていたということです。)

豊臣方の将:木村重成が入浴の際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせます。
一言:現代人の感覚で言えば、出陣する前に入浴し、その際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせるなど、「木村重成ってナルシスト?」なんて思う人も多いことでしょう。ですが、時代劇などでも、武士が切腹するおりは、部屋でお香を焚き、身を清めた上で白装束となり、白木の三方に乗った諸刃の短刀の柄部分を和紙で包み、あいた三方をお尻に敷いて、仰向けに倒れて醜態を晒さないようにしてから自害するというシーンがよく見られます。お香は血の匂いを消すものです。つまり重成の入浴して兜に香を焚き込めさせた上での出陣は、敵に首を討たれることをいとわぬ並々ならぬ覚悟で出陣した事を物語っています。ちなみに重成は幼少から豊臣秀頼の小姓として仕えたといわれ、秀頼の信頼が厚く、豊臣家の重臣でした。大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い、その名は天下に知られるようになります真田丸の戦いにも参加し、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞賛されます。夏の陣にて打たれた重成の首実検で、その首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったことで、家康はその覚悟に感嘆したたという逸話が残っているそうです。)

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