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〜直虎:『桶狭間に死す』では定説を否定し、政次ではなく奥山朝利の非を描き〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おんな城主直虎編
『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第9回放送『桶狭間に死す』では、井伊家の中にあって、井伊家に忠義を尽くすのではなく、今川家の意向に従うことで井伊家の乗っ取り、もしくは今川家での地位を上げようとする逆臣だったこと定説となっている小野政次が、少なくとも桶狭間の戦いの直後までは井伊家に対する反逆者ではなく、奥山朝利の政次に対する偏見が、やがて政次を反逆者へと変えて行くという設定で描かれたと思われます。
小野政次と奥山朝利について、ウィキペディアでは以下のように記されてます。
遠江国引佐郡井伊谷を治める井伊直盛の家老を務めた小野政直の嫡男として誕生。天文23年(1554年)、父が病死するとその家督を継承する。父・政直は井伊一門である井伊直満(直盛の叔父)らと対立し、これを謀殺するなどした奸臣(かんしん:邪悪な心を持った家来)として知られており、直満家の脅威であった政直の死により、信濃国へ亡命していた直満の子・直親が帰郷し、直盛の養嗣子の座に収まっている。
永禄3年(1560年)5月、井伊氏は主家にあたる今川氏の西上軍に従うが、今川軍は桶狭間の戦いで織田信長に大敗を喫し、井伊直盛も戦死する。直盛は死ぬに先立ち、小野氏が再び専横する事を懸念して、井伊氏の分家筋である中野直由に直親の後見するよう遺言しており、直盛の祖父・井伊直平はこれに従って直親の後見役とした。なお小野家でも道好の弟・朝直と、一族とみられる小野源吾が討死している。同12月、朝直の舅でもある井伊氏親類衆の奥山朝利を暗殺した。
一方、隣国三河国では徳川家康が今川氏を離反し、今川氏を破った織田氏と同盟を結んだ。この頃になると直親も徳川氏に心を寄せ、密かに内通していたという。道好と直親は、父同士が因縁もあり関係は不仲だった。道好は井伊谷を横領しようと画策していたとされるが、直由が後見役に収まっていたために果たせずにいた。そこで直親の内通を知った道好は、永禄5年(1562年)に駿府の今川氏真に直親が織田・徳川氏に内通している旨を密告した。氏真は直親追討の軍を挙げようとしたため、直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かうが、途中の掛川にて今川氏重臣の朝比奈泰朝によって殺害された。道好は氏真の命を奉じて直親の遺児・虎松(後の井伊直政)も討たんとしたが、井伊氏に近い今川家重臣・新野親矩によって阻まれた。その後、永禄6年(1563年)には井伊直平が死去し、永禄7年(1564年)には中野直由が戦死した。井伊谷を預かっていた直由が亡くなり井伊谷城が無主となったため、井伊氏は直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)を当主とした。
永禄11年(1568年)、甲斐国の武田信玄が今川氏の本国・駿河国に侵攻した。これに際して道好は駿府で今川軍に従っていたが、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう氏真より命じられる。道好はその命を奉じて井伊谷に入り、井伊氏より井伊谷を横領する事となった。虎松や次郎法師、直盛後家の祐椿尼は井伊氏菩提寺の龍潭寺に入って難を逃れている。だが徳川家康は道好の専横に対し、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。道好は敗北して井伊谷から退去し、近隣に潜伏していたが捕えられ、永禄12年(1569年)に堀川城攻撃の仕置きで、獄門を言い渡され井伊谷で処刑された。そのひと月後には道好の男子2人も斬罪となった。
このように、史書に残る記録では、小野政次は悪であり、奥山朝利は正義ですが、
『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』ではこの定説をあえて否定し、政次が反逆者となるにはその前提となる井伊家からの不当な扱いがあったとし、政次に暗殺されたとされる朝利にむしろ非が有るとしたのです。
思い起こせば、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』におけるこれまでの放送で、政次の父:政直は井伊分家の井伊直満らと対立し、今川義元に今川家への裏切り行為を密告して直満を亡き者とし、井伊家乗っ取りを図りますが、病により急死します。
政直は死の直前、父上のようにはならないと言い張る嫡男:政次に対して、「いずれお前もわしと同じ道を歩むことになる。」と言い残しました。
ですが第9回放送『桶狭間に死す』までの政次は、誤解を招きやすい武骨な所はあるものの、おとわ(次郎法師)に密かに思いを寄せ、井伊家に対しても二心なく仕える姿が描かれました。
そんな中、今川義元が織田信長の軍によって討たれ、井伊直盛もその桶狭間の戦いの中で命を落とします。
従うべき大名と井伊家の当主を同時に失った井伊家は混乱し、早急に次期当主を決める必要に迫られますが、直盛は死を前にして井伊家を直親ではなく中野直由に託すとの遺言を残します。
直盛亡き後、井伊家の先頭に立ったのが直由だったというのは史書の記録に沿うものですが、それが直盛の遺言によるものとするのは、ドラマ上の設定でしょう。
ではなぜドラマにおける直盛は直親ではなく直由を指名したのでしょうか?
歴史上において直盛の後、井伊家の当主は直親から直政(直親の子)へと継がれますが、直政の誕生は直盛の死後です。
直盛は未だ直親を次期当主と認めていなかった、もしくはまだ当主としての力量または人望を得ていないと見て、当面は井伊家を直良に託したのでしょうか?
それとも娘であるおとわ(次郎法師)が今川からの呪縛を解かれて還俗すれば、その子を次期当主となりうることも視野に入れていたのでしょうか?(まだこの世に生まれていない直親の子)を見定めるまでを直良に託したのでしょうか?
いずれにせよ現当主である直盛の死による家中の混乱に乗じて、小野政次が井伊家を思うがままにしようとしているとの強い疑念を持つ奥山浅利は、娘:なつ(朝直(玄蕃)の妻)を本人の意志にかかわらず、奥山家へ帰すようにと政次に強引に迫り、屋敷に呼び寄せて背後から斬りつけたために、それを防ごうとした弾みで逆に政次が奥山朝利を斬ってしまったというのが、今回のストーリーでした。
つまり小野政次は、直盛亡き後の井伊家を乗っ取るために奥山朝利を暗殺したのではなく、当初の政次にはそうした野望があったわけではなく、弾みで朝利を斬ってしまったことが、井伊家家中で政次を奸臣(かんしん:邪悪な心を持った家来)へと変えて行くことになることが、今後の放送で描かれるのでしょう。
思うに、奥山朝利の生涯や人物像が定かでない以上、こうした『桶狭間に死す』で描かれた事情は、有り得ない話ではないと思えます。
井伊谷城跡 城山公園の三之丸にある小野政次の塚(墓)
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