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〜真田丸:幸村の正室 春と娘 うめ(阿梅)は大坂夏の陣以後どうなったか〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、大坂夏の陣において豊臣方が前哨戦である樫井の戦い・伊達軍と戦った道明寺の戦い・徳川本隊と戦った若江・八尾の戦いにおいてことごとく敗北し、塙団右衛門・後藤又兵衛・木村重成らが討死するに至り、幸村(信繁)は正室:春(竹林院)と娘:うめ(阿梅)の身の安全を伊達政宗に託す決断をしました。
これは、春(竹林院)や娘:うめ(阿梅)の大坂夏の陣以後を伝える記述にある程度合致するものです。
ではその現時点で史実とされる、春(竹林院)や娘:うめ(阿梅)のその後とはどのようなものだったのでしょう?
第49回放送『前夜』では、春とうめは幸村(信繁)が存命だった伊達軍との交戦直後に、伊達政宗との密約により、政宗のもとに引き取られたように描かれましたが、ウィキペディアなどにおいて史実とされる記述では、幸村(信繁)の死後、つまり大坂夏の陣で炎上する大坂城から逃れた春とうめは、別々に徳川方の武将に引き取られています。
まずは春(竹林院)ですが、
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では夫と共に大坂城内に拝領した屋敷に入りますが、慶長20年(1615年)5月7日に大坂夏の陣で信繁が戦死すると、子女を連れて大坂城から落ちのびますが、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟の捜索により、5月19日に紀伊伊都郡で、幸村(信繁)の4女:あぐりと共に3人の(豊臣方の)侍に警護されて隠れていたのを発見され、5月20日に京都の家康に引き渡されます。
その後石川貞清に嫁いでいた幸村の7女:おかねの保護を受けたらしく、その後は京で暮らし、慶安2年(1649年)5月18日に京都で死去します。
あれっ、うめに関する記述がありませんよね、ご安心下さい。この後にご紹介しますので。
実はうめ(阿梅おうめ)真田幸村(信繁)の三女です。
うめ(阿梅)は、第49回放送『前夜』では春(竹林院)の娘として九度山で生まれたように描かれていますが、
阿梅 - Wikipediaによれば、
通説では、享年78から逆算して慶長9年(1604年)生まれとされていますが、信繁の九度山時代の生まれとなってしまい、信濃で生まれたとする『左衛門佐君伝記稿』の記述と一致しないことを疑問視し、菩提寺の当信寺の位牌には享年83とあることから逆算すれば、慶長4年(1599年)生まれとなって、信繁が信濃上田城にいた頃の誕生となり、この説を正しいとしています。
翌慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で大坂城が落城すると、その後の混乱で仙台藩の家臣・片倉重長の兵に乱取り(戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。)され、同家の侍女として召し抱えられます。
(一言:普通ならば売り飛ばされるか、奴隷にされるはずのうめが、真田幸村の娘だと知れたことで、伊達政宗の重臣の継室にまで出世するとは、なんという強運でしょう。)
(一言:第49回放送『前夜』では、どちらかと言えば信繁が片倉重長を見込んで託したという話をもとに描かれたのでしょうね。)
重長はうめ(阿梅)を滝川某の養女にする手続を踏んでから正式な妻としたといい、信繁の妹婿・滝川一積の養女となり、滝川家から片倉家へ嫁いだという説や、
信繁の姉婿・小山田茂誠が養女に迎えて、小山田家から片倉家へ嫁いだという説もあるそうです。
この場合、重長が継室とするに際して、真田信繁の娘だと徳川幕府に察知されてば、うめ(阿梅)の身柄や片倉の家も、危ぶまれるため、これを隠すために小山田茂誠の養女とする工作を依頼したことは十分に考えられます。
(一言:うめは亡き父への慕情と共に、父:幸村の娘であったために、戦場で乱取りされた身でありながら、売り飛ばされることや、奴隷にされることもなかった事を、深く感謝して菩提を弔ったのでしょうね。)
そしてうめ(阿梅)は延宝9年に没します。
法名は泰陽院殿松源寿清大姉。片倉氏2代の菩提寺である当信寺に墓所があり、如意輪観音像を墓標としたものだそうです。
しかしどうした加減か、後年になってこの墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まり、うめ(阿梅)の墓石は原型を留めていないそうです。
(一言:御利益があるとは言え、石の粉ですよ、仮に御利益があったとしても、体には悪いですよね。と言うか、墓を削って口にするなんて、罰当たりもいいとこですよね。)
『片倉代々記』によると、阿梅は大坂城の落城に際して片倉重長が戦場で得た、つまり乱取りされたという。当初は出自が分からず、侍女として召し使っていたが、その後真田信繁の娘と分かり、後に継室に迎えたという。『白川家留書』にも乱取りされたとある。
託されたとする話は、俗伝であるが、広く知られている内容はおおよそ以下の通り。
慶長20年5月6日の誉田の戦いにおいて、伊達隊の先鋒であった片倉重長は、真田隊と激しく戦った。その時の武者ぶりが敵ながら天晴れであるというので、信繁が重長を見込んで、落城の前に阿梅らを送り届けてきたというものです。
これは片倉家の初代と2代についての話をまとめた『老翁聞書』にある話が元になっており、そこでは以下のように書かれている。
一 大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり。後その家来のもの尋来りて、臣下となる、真田左衛門佐幸村の息女とす。寄手諸将の中に片倉兼ての英名、殊に此度目を驚す、武功の事なれば末繁昌ならん事を予め斗り、容色万人に勝たれる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと、幸村申仕置重綱公の陣の前へ、物し出したるならんと、皆いへりけるとなり。 — 老翁聞書
『老翁聞書』の内容を要約すれば、 阿梅は身分を名乗らずに自主的に投降しただけだが、この偶然を人々は、片倉の武名が世に広く知られていたことから、同様に日の本一の兵(つわもの)と称されるほど武名の誉れ高い信繁は、「この武将ならば」と託したと都合の良いように解釈したということのようなのです。
幸村(信繁)の3女うめを演じる大出 菜々子(おおで ななこ)さん
サンミュージックアカデミー大阪校出身(第26期生)。
身長158cm。体重43kg。B77cm、W62cm、H82cm。靴22cm。
趣味は音楽鑑賞(洋楽、K-POP)、読書。
初主演を務めた映画『茜色の約束 サンバdo金魚』の塩崎祥平監督は「とびきり上品な子なんだ」と評している。 |
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〜真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』で、徳川家の二代将軍 秀忠は、家康の後継者としては物足りない、少なくとも戦場においては凡庸な人物像として描かれおり、第47回放送『反撃』においては、「真田丸など大軍で攻めれば難なく落とせる。」とか、「豊臣家と和議を結ぶことなど必要ない。」などといった内容の言葉を家康に語り、その度に家康は「正信。」と声を上げ、本多正信に対して家康が行う事の説明を代弁させることで、秀忠の考えの浅さを指摘します。
こうした秀忠に対する家康の態度は、将軍として余りに思慮の足りなさに、自らが諭すには次元が低すぎるため「答える事すらj面倒くさい。」と言わんばかりです。
少し話は脱線しますが、そんな凡庸な秀忠を演じているのは、星野 源(ほしの げん)さんですが、私には星野 源さんは、秀忠役としては不適任だと思えます。
なぜなら星野 源さんは、俳優として大人計画に所属して活躍し、ミュージシャンとしてはインストゥルメンタルバンド「SAKEROCK」のリーダーとして、主にギターとマリンバを担当しながらシンガーソングライターとしても活躍しています。また、文筆家としてエッセイストやコラムニストの顔も持ち、複数の連載や刊行物を著しているなどマルチタレントとして多方面で大活躍されているだけあって、ドラマ上の秀頼役においても鋭すぎる眼差しが印象的で、凡庸な人物、つまり秀忠らしい秀忠にはどうしても見えないのです。
それはともかく、前ページの〜真田丸:濠の埋め立てなどの和睦が無くとも豊臣の勝利は無い!ホントに?〜では、もしも大坂冬の陣の後に豊臣方が家康の和睦の提案を受け入れていなくても、豊臣の勝利は無い。という一般的な見方に対して、異論の余地を考えてみました。
その結論としては、「もしも和睦がなかったなら、豊臣方が策略を用いて大坂冬の陣で家康を討ち、徳川に勝てる可能性はあった。」としました。
そこで今回はもしも豊臣方が家康を討ったなら、既に将軍となっていた秀忠は、家康に代わって引き続き諸国の大名を率いて豊臣討伐を成し得たか?について考えてみたいと思います。
そもそも大坂冬の陣に際し、既にそれ以前の天下分け目の関ケ原の戦いにおいて勝利していた徳川方でしたが、それを可能にしたのは家康の力によるものであり、言い換えれば家康の知力と権威に全国の諸大名は服従していたのです。
つまり家康なればこそ当時の態勢は徳川政権としての納まりを見せていたということで、
そんな家康の存在がもしもなくなったとしたら、果たして秀忠にその後を引き継ぐことができたのでしょうか?
歴史を振り返ってみれば、武田信玄亡き後の武田家、上杉謙信亡き後の上杉家、織田信長亡き後の織田家、豊臣秀吉亡き後の豊臣家、そのどれを見ても衰退の一途を辿っています。
徳川家は後に家光という大きな存在が3代将軍として現れ、徳川政権は万全のものとなって行きますが、それは家康存命中に豊臣家を滅ぼしていたからこその歴史です。
冬の陣での和睦がなければ、大坂城の外濠も、真田丸も健在です。
この難攻不落の大阪城を、秀忠を大将とする徳川軍は、陥落させることができたでしょうか?
数多くの大砲をもってすれば、たとえ秀忠でも豊臣家を滅ぼせた!と断言できるでしょうか?
政治力はともかく、少なくとも戦場においては、これまで数々の戦国ドラマに描かれて来た凡庸な秀忠像が正しいとするならば、大坂の陣における徳川方の中にも「家康亡き後の徳川など恐れるに足りず。」とばかりに豊臣方に離反するものが複数現れ、伊達政宗などは天下取りの動きを見せたと思えます。
果たして徳川秀忠の実像とは、どのような人物だったのでしょうか?
続きは明日。
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〜真田丸:信繁とたかの子 直は秋田の藩主に見い出され、弟と真田家再興を〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
豊臣秀次は1595(文禄4)年、秀吉によって自害させられました。
そして秀吉は、豊臣内部での家督争いを防ぐために、8月2日に秀吉は秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首されます。
秀吉の姉であり秀次の母である:智(とも:瑞龍院)は、秀次の供養の為京都の嵯峨野に瑞龍寺を建立し、菩提を弔いました。
斬首された者の中には、正室:一の台の姿もありました。
しかし、秀次の正室:一ノ台を母に持つたかと姉の2人らは難を逃れ、真田信繁の側室:隆清院となります。
やがて秀吉は病死し、これを好機とみた家康は豊臣家に反旗を翻し、天下分け目の関ケ原の戦いにおいて徳川軍が勝利し、敗れた豊臣軍は本拠地:大阪城で徳川軍を迎え討つこととなります。
大坂の陣が始まる前の1614(慶長19)年10月13日、隆清院は娘:直を連れ、信繁(幸村)・嫡男大助らと共に大坂城に入城します。
11月に大阪冬の陣が起こり、その後和睦により収束した後もしばらくの間、信繁、大助、隆清院、田らは大坂城で過ごします。
しかし、翌年の1615(慶長20)年3月には隆清院と直は大坂城を出、秀吉の実姉であり、がいる京都嵯峨野の瑞龍寺に身を寄せます。
家康が和睦の条件だった大阪城の外濠を埋めると、更に内堀までもを埋めたことで、再び徳川が大坂城を攻めることが目に見えていたからです。
この時、隆清院は2人目の子供である信繁の三男:幸信を身籠もっていました。
瑞龍寺に身を寄せた理由は、出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親:智(とも:瑞龍院)は、隆清院にとっては夫の母、つまり義母だからです。 案の定4月下旬には再び徳川が攻め入り、大坂夏の陣が起こり、信繁は孤軍奮闘しますが、5月7日ついに力尽き、信繁は討ち死にします。
翌5月8日には豊臣秀頼が大坂城で自害し、豊臣氏は滅亡します。 大坂夏の陣が終わり、徳川方によって残党の捜索が行われ、京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、隆清院は姉を頼って梅小路氏に身を隠し、娘の直は町人の格好をして居場所を転々とします。
7月、隆清院は直の弟となる幸信を産みます。 町人の格好をして居場所を転々としていた直は捕らえられて、身柄を江戸へ送られますが、伯父である真田信之が幕府に掛け合ってくれたのでしょうか、人質として大奥勤めをするというもので、比較的軽い処分でした。
直は十五、六歳の少女だったが、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。菊亭大納言晴季の血筋と言った方がよいのかもしれない。
一方、母:隆清院は梅小路氏と結婚した姉のもとで匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで左馬之佐(幸信)を産んで育てていました。
大奥に入ってから3年が過ぎた頃、直は大奥を出ることを許されます。 そして直は、江戸から京へと向かい、母:隆清院と再会を果たします。 京についた直は大奥勤めの経験を買われて、四条のある屋敷に給仕人として入ることになりました。
その頃京には出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主の佐竹義宣が1626(寛永3)年6月の大御所徳川秀忠、または同年8月の将軍徳川家光の上洛に随行しましたが、弟である宣家も行動を共にし、3ヵ月近く京都にいました。
ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、義宣が目を覚ますと勇ましい掛け声が聞こえてきました。義宣が掛け声がしている方に行ってみると、屋敷の裏庭で大勢の下女達が長刀の稽古をしていました。 そこでは、鎧兜に身を固めた一人の女性が指南をしていたのです。
よく見ると、その女性は毎日義宣たちの身の回りの世話をしている給仕人でしたが、その姿に義宣は由緒ある家の出身ではないかと思い、その女性に尋ねると真田信繁(幸村)の忘れ形見であることが分かります。
義宣は共に将軍家に随行していた弟:宣家が正室と不仲であることを日頃から心配していたこともあり、宣家を元気づけるためにお田を宣家に紹介します。 結果的に宣家は直を大変気に入り、側室として、桧山の多賀谷氏に嫁ぐことになりました。 京都で宣家と出会った直は1627(寛永4)年に多賀谷氏が治める桧山を訪れ、宣家の側室になり、お田の方と呼ばれます。
、お田24才、宣家46才のことです。
翌年の1628(寛永5)年、宣家との間に長男の庄次郎(重隆)を生みます。
お田は宣隆を支える良き妻であり、子供に対しては教育熱心な母親だったと伝わっています。 夫:宣家宣家の兄である佐竹義宣は、佐竹氏の宗家として久保田藩(秋田藩)を治めていましたが、子供が居なかったため弟義継を後継者にしていましたが、訳あってそれを撤回したため、同じく弟である貞隆の息子、つまり甥っ子である岩城吉隆を後継者にしました。
しかし亀田藩の藩主であった岩城吉隆が保田藩(秋田藩)の後継者となったために、亀田藩の藩主の座が空席になってしまいます。 だからと言って亀田藩主となる人物は他家の者でもいいというものではなく、同じ佐竹氏の家系で固める必要がありました。
そこで1628(寛永5)年8月、お田の息子である庄次郎(重隆)が亀田藩の藩主に任じられます。 なぜなら岩城吉隆は宣家にとって甥だったからです。
この時代、家督は下の立場である甥から上の立場である叔父へ移る事は好ましい事ではありませんでした。そこで、まだ乳児だった庄次郎(重隆)に変わって、番代として宣家は岩城藩を取り仕切る事になり、実質的には宣家が藩主の仕事をする事になります。
宣家は岩城氏のしきたりに従って、名前に偏諱(へんき)として「隆」の字を入れて宣隆に改名しましす。 この時、お田は正室になり、久保田(秋田)城下にある亀田藩邸に行きます。
1629(寛永6)年10月、お田は真田氏の菩提を弔うために、越後の妙勝寺から円乗院日砌上人を招いて久保田(秋田)に妙慶寺を建立、真田家の再興を願ったとも言われます。
妙慶寺はその後、亀田に移され、岩城氏の準菩提寺として10石を与えられています。 お田は妙慶寺に鬼子母神の像を奉納し、自らお百度参りをします。 お田は大名の妻でありながらオムツ替え・食事・母乳など育児を給仕人だけに任せず自らも行います。
庄次郎の礼儀作法・読み書き・武術などの教育もお田自ら熱心に指導したそうです。 1633(寛永10)年、重隆が6才の初めて将軍に拝謁した時には、江戸まで随行します。 (一言:現在妙慶寺に納められた甲冑は、1953年に県の有形文化財に指定されました。戦国時代に信繁が作らせた甲冑とみられています。少女用の甲冑とあって、高さは150センチに満たない。亀田地区の真田伝承のシンボルだが、歳月を経て劣化が進み、かぶとを結ぶ「忍び緒」や、「小札」という短冊型の部位をつなぐ糸の傷みが激しい。 胴丸の漆は剥離、藍色もあせている。 )
重隆の参勤交代に毎回随行していたのかは不明ですが、1635(寛永12)年6月11日、重隆が参勤交代で江戸いる最中に江戸柳原にある亀田藩邸でお田は病気となり、32才で亡くなり、江戸・下谷の宗延寺で葬儀が行われました。
お田の長女(不詳)は物心が付いた頃に母である田を亡くし、その悲しみに耐えきれず心の病にかかってしまい、出家して妙慶寺で田の菩提を弔う生活を送りました。
1646(正保3)年、お田の長女(不詳)が妙慶寺で亡くなります。 墓は妙慶寺にあり、法号は寂寥院殿心月日證大姉です。 1656年7月25日、夫:宣隆が番代を退いて、その子である重隆が本格的に亀田藩藩主になりました。(宣隆73才、重隆29才)
妙慶寺にはお田の方、:隆清院、幸信の位牌と大小刀があります。
お田の方の甲冑
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〜真田丸:たかこと隆清院と信繁の娘は真田の方とは名乗れずお田の方と〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回のページで記したようにドラマの設定では、信繁は豊臣秀次の娘:たかを救うため、秀吉より話のあった大谷刑部(大谷吉継):の娘:春との縁談を了承し、たかを側室に迎えます。
史実に残るたかは信繁の側室となって後に隆清院として、まだ信繁が大坂の陣で亡くなる以前に直という娘を生みます。
直は後にお田の方と名乗るのですが、本当は『真田の方』と名乗りたかったのですが、それでは第一次・第二次の上田合戦や大坂の陣において辛酸をなめた徳川にその名を知られれば、母:隆清院が徳川の追手を逃れて長い逃亡生家の末、やっと生き延び縁あって出羽久保田藩(秋田藩)の佐竹家に嫁ぐこととなったのに、真田の名を知られては徳川よりお家おとりつぶしになりかねません。
しかし、直が佐竹義宣に見いだされたのも真田ゆかりの女性であるがゆえの縁でした。
そこで『真田の方』ではなく『真』をとって『田の方』としたのです。
『田の方』の名からは、いかに佐竹家が武門の誉れ高き真田信繁の忘れ形見:直を厚く迎え入れたかが伺える名なのです。
次回はお田の方とその弟について記します。
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〜真田丸:たかは、信繁の側室となることで難を逃れた?二人はプラトニック?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回のページで記したように『NHK大河ドラマ 真田丸』第28回放送『受難』では、
信繁は豊臣秀次の娘:たかを救うため、秀吉より話のあった大谷刑部(大谷吉継)の娘:春との縁談を了承し、ます。つまり、春を正室として迎えるかわりに、、たかを側室にすることの了承するという条件を秀吉に認めさせたのです。
これは、秀次が自刃したことで激怒した秀吉が秀次の縁者をことごと処刑しようとしたため、秀次の娘:たかも処刑される運命にあったのを救うために側室としたのでした。
いくらなんでもそんなバカな話があってたまるものかと思いますよね。
ではあるのですが、関白:秀次が自決して後、秀吉は豊臣内部での家督争いを防ぐために、秀次の一族すべての処刑を命じ、側室や侍女34人と、惨くも子供4男1女も京都三条河原で斬首された時、たかとたかの姉の2人は、なぜかこの処刑から逃れることができたというのもおかしな話です。
たかが秀次の娘だというのが事実で、そのたかが信繁の側室:隆清院となったのも事実。
だとしたら三谷さんの発想以外に、たかが処刑されずに信繁の側室となり、たかの姉2人も助かるためにはどんなことが考えられるでしょうか?
私はこう思うのです。
自刃した秀次の娘:たかが信繁の側室となった同時期に信繁は、大谷刑部(大谷吉継)の娘:春を正室に迎えますが、大谷刑部は信繁が従五位下に叙任される際にその叙任を強力に後押ししたとされます。
これは、大谷刑部が信繁に惚れこんでいたということではないでしょうか?
だから娘:春を信繁の正室とした。
そして大谷刑部は秀吉の側近中の側近であり、秀次が関白となってからは、秀吉よりもむしろ秀次に強い忠義心を持っていた。
ところが秀次は秀吉の不興をかい、自刃に追い込まれます。
この時秀次は、せめて我が子なりとも救ってくれと頼まれ、娘婿となった信繁に相談します。
そして刑部と信繁は一計を案じます。
たかを信繁の側室にすれば、それはもう関白秀次の子ではなく、信繁の側室でしかなくなり、2人の姉も信繁の義姉であり、たかと信繁との間に生まれた子も、真田家の子でしかない。
信繁と刑部はそう考え、秀吉にその論理をもって3人の助命を願い出た。
秀吉も真田信繁ならば豊臣に弓を引く野心など持たない武士(もののふ)、後に禍根を残すこともあるまいと考え、たかを信繁の側室とすることを許した。
秀吉はその際、「たかをそなたの側室とすることは許そう。その代わり、拾(秀頼)の事はわし亡き後もくれぐれも頼むぞ。」と言ったのではないかと。
大谷刑部にしてみれば、娘:春以外に信繁の妻を認めることは本来は許せないことですが、他でもない主君であった秀次の娘:たかならば、是非もない。そう思ったのではないでしょうか?
とまあ以上は私の仮説というか妄想ですが、たか・隆清院(信繁の側室) | 真田信繁.com 真田丸ストーリー …によれば、その後の記録としては、
たかは成長して、「隆清院」となります。
慶長19年(1614年)、信繁が大坂城に入城すると、隆清院も信繁と共に大坂城に入城することとなり、二人の間に生まれた娘:田も同行します。
その年の11月には大阪冬の陣となりますが、その後の和睦によりいったんは事態が収束。しばらくの間は大坂城で過ごしましたが、翌年の1615(慶長20)年3月には大坂城を出て
この時とも・瑞龍院は既に出家して日秀尼と呼ばれていた京都嵯峨野のとも・瑞龍院(隆清院の祖母であり、秀次の母。秀吉にとっては実姉。)を訪ねました。 このように当時、たか:隆清院が夫:信繁のもとを離れたのは。2人目の子供になる、真田信繁の三男・幸信を身籠もっていたからかもしれません。
そして同じ年の4月下旬には、大坂夏の陣において5月7日、信繁は討ち死します。
5月8日には、豊臣秀頼が大坂城で自害して、豊臣氏は滅亡しました。 大坂夏の陣が終わると徳川方による残党の捜索が行われ、身の危険を感じた、たか(隆清院)はとも(瑞龍院)とともに姉を頼って梅小路氏に身を隠し、娘のお田は町人の格好をして居場所を転々としたと言います。
お田は捕らえられて身柄を江戸へ送られましたが、その処分は人質として大奥勤めをするというもので比較的軽い処分に終わっています。
(※これは伯父にあたる真田信之が幕府に掛け合ったためとも。) 一方のたか(隆清院)は姉の嫁ぎ先である梅小路氏に匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで幸信を産んで育てたと言います。
大奥に入ってから3年が過ぎた頃、お田は大奥を出ることを許され、無事、たか・隆清院と再会を果たすことが出来ました。 その後、お田は御田姫として、出羽亀田藩主・岩城宣隆(佐竹氏の一族)のもとに側室として嫁ぎます。
弟の真田幸信もその縁で岩城宣隆に引き取られ、元服すると家臣となり、その名を三好左馬之介幸信と名乗ります。 やっぱり信繁とたかは、今回ドラマで描かれたようなプラトニックな関係ではなかったんですね。
ドラマでのたかは、信繁の側室となって直ぐに秀吉の許しを得たとは言え、いつその気が変わるとも限らないと、堺の貿易商だった呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)こと納屋助左衛門(なや すけざえもん)に身柄を預けられ、ルソン(フィリピン)へと逃れますが、上記したような史実からして、大坂の陣に際しては、再びたかが登場する場面があるのかもしれませんね、成長した姿:隆清院となって。
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