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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜直虎:『初恋の別れ道』では直親が何とか次郎法師と夫婦になろうと試みるも〜
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第6回放送『初恋の別れ道』では、今川から命を狙われ姿をくらましてていた亀之丞こと井伊直親が井伊谷に戻り、幼くして別れ別れになった時にも夫婦になる約束(許婚)をしたことを直親はずっと心に誓い、再会を期に約束通りに夫婦になることを次郎法師に迫ります。
しかし次郎法師は、この直親の言葉を嬉しく思いながらも、素直に受け入れることができません。
それは次郎法師の井伊家への深い思いからでした。
つまり、女ながらも生まれながらに井伊家を継ぐのは我の務めと信じて育った彼女にとって、今生に一度の初恋と言えども、お家の重さとを天秤にかけることができなかったのです。
しかし直親は諦めきれません。無事の帰還を祝う井伊家の人々の前で、「次郎法師様の還俗は何時の事になりますか?」と直盛に問います。
この問いに対し、鶴丸こと小野政次が口を開き「・・・・先ずは太守様より直親の帰参の許しを得るのが先決。次郎法師様の事はその後で・・・・」と意見を述べます。
この後直親は次郎法師に会い、彼女の口から「実は我の出家は、今川による本領安堵と引き換えとなっておるのじゃ。勝手に還俗は出来ぬという事じゃ。」という重大な事実を聞かされます。
直親はこの知らされていなかった重大な事情を知らされて驚きますが、それでもこの事態を打開する手立てについて、「まあ、何かしら策を考えてみる。」と二人が夫婦になる事を諦めようとはしません。

一方、今川家の瀬名姫は、今川氏真のことを未だに思い切れずにいる中、その傍らでスズメを篭に入れて世話をする松平元康(後の徳川家康)の不甲斐ない姿に尚更の苛立たしさを覚えます。

さて、話は次郎法師に戻り、「還俗など容易いのにのう、我が井伊家の娘でさえなければ。」と直親と夫婦になるかどうかを悩んでいると、そこへ南渓和尚が現れ、酒徳利・饅頭・杯を取り出して中国の昔話を始めます。
南渓:「むかーし、趙(ちょう)という国に、道威(どうい)という王がおってな、道威のもとには、中と、泊という二人の大臣がおった。ある時争いごとが起こってな、どちらを追い出すかを決めるために、中と泊にそれぞれ二つの饅頭を差し出したのじゃ。二人ともその場で一つずつ食べ、中は残りの一つを腹の空かした子供にやった。泊は、それを後生大事に持ち続け、とうとうカビさせて食えぬようにしてしまった。さて、その後道威は、どちらに大臣を続けさせたかのう?」
この和尚の問いに対し、次郎法師は選ばれたのは中と答えますが、和尚の答えは伯が選ばれたと答え、「伯が選ばれたのは何ゆえじゃろう?」と問います。
しかし、次郎法師はその場で答えることは出来ませんでした。
一方直親は、直盛から次郎法師の還俗についてはあきらめるよう言い渡され、直親はその場で二度と次郎法師の名は口にしないと言います。
ところが実際には直親は次郎法師の還俗を諦めておらず、直平に協力を求めます。
その後直親は次郎法師に対して二人が夫婦になるには次郎法師が死ぬしかないと言い出します。
もちろんこれば本当に次郎法師が死ぬのではなく、、死んだと見せかけ、井伊谷から彼女が身を隠すという策だったのです。
しかし次郎法師はこの策を一旦は決意するものの、実行することは出来ませんでした。
そして、南渓和尚が語った中国の昔話について一晩を掛けて考えます。
翌朝次郎法師は、直親を呼び出し、二人が夫婦になることは出来ぬと言い出します。
最終的に次郎法師は直親に対し、「我がカビた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証であろう、違うか?」と告げ、その場を立ち去ろうとしますが、直親は彼女を後ろから両手で抱き止め、詫びます。
「置き去りにして済まぬ、済まぬ。」と。
次郎法師は泣きそうな顔になりますが、気を取り直し、笑顔で去り、直親は「思いを改めなければならないのはこのワシじゃ。」と、その場に残り、彼女への思いを断ち切る決意を固めるのでした。
結局、直親は次郎法師を諦め、小野政次にも「お前もそろそろ実を固めてはどうか?いつまでたっても次郎はお前の嫁にはならんぞ。」と言い放ち、政次は、「考えたこともないわ。」ととぼけますが、「わしにはそうは見えんわ。」と捨てゼリフを残して去ります。
そして数日後、直親は奥山朝利の娘と祝言を挙げたのです。

この回の放送は最後に今川の瀬名姫の様子が映し出され、彼女は松平元康(後の徳川家康)がスズメを手なずけている様子を見て思わず声をあげます。
「うそ!」と。

とどのつまり、次郎法師は井伊家のために心に思う人とは結ばれることができず、瀬名姫は思いもよらなかった者との縁が、結ばれようとしていたのです。

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互いに思いを寄せながら、結ばれぬ定めに、直親は別れ際に次郎法師をハグします。

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〜直虎:南渓和尚の語った趙国の王である道威にまつわる昔話は架空?
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第6回放送『初恋の別れ道』では、「還俗など容易いのにのう、我が井伊家の娘でさえなければ。」と直親と夫婦になるかどうかを悩んでいる次郎法師の前に南渓和尚が現れ、酒徳利・饅頭・杯を取り出して中国の昔話を始めます。
ところがこの南渓和尚が語った中国の昔話が実際にあるのかと思いきや、どうやらドラマ上の作り話らしく、趙の王、道威どうい)と大臣、中と伯について - 歴史 ...には以下のような質問と解答が寄せられていました。
(質問)
NHK大河ドラマ、「女城主直虎」の本日(2017/2/12)の放送のことです。
南渓和尚は古代中国の趙の国の話を聞かせます。「道威(どうい)という王に、甲乙つけがたい2人の大臣、中と伯がいました。ある争いから、王はどちらか一人を追い出さなくてはならなくなりました。そこで道威は2人にそれぞれ2個づつ饅頭を渡します。中は一個は自分で食べ、もう一個は腹の空いた子供にやった。伯は1個は自分で食べ、もう一個は大事に持ち歩き、いつの間にかカビさせて食べられなくなりました』
これを聞いた次郎法師は、伯より中の方が大臣にふさわしいと思いますが、道威が大臣に選んだのは伯と聞いて悩み、ある結論を出します。

質問1. 甲乙つけがたい2人の大臣を、中と伯と漢字で書いていましたが、これは伯仲という言葉もあるように「中」ではなく「仲」ではないでしょうか?

質問2. この話の出典は何でしょう?”趙”、“道威”、”伯”で検索してもNHKの話しかヒットしません。

(アンサー1)
質問1. 甲乙つけがたい2人の大臣を、中と伯と漢字で書いていましたが、これは伯仲という言葉もあるように「中」ではなく「仲」ではないでしょうか?

 はい、そうだと思います。
 http://gogen-allguide.com/ha/hakutyuu.html

質問2. この話の出典は何でしょう?”趙”、“道威”、”伯”で検索してもNHKの話しかヒットしません。
 下記に道威、という王様も、主要家臣の中に、中と伯の名もありません。南渓和尚か日本放送協会にお聞きになるのがいいと  思います。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B5%E5%9B%BD

(アンサー2)
(1)すいません m(__)m 大河ドラマ;『女城主 直虎』を拝見しているものですが,私も,疑問に思い,Web上で,古代中国の国;趙(前趙,後趙)などについて,調べましたが,大河ドラマ上の,小林薫さん演じる和尚さんのセリフにあるような,趙の国の道威王や,大臣の,伯や仲(中)という方は,居ませんでした..多分,質問者様のおっしゃるように,実力伯仲のような,四字熟語の転用だと思われます..又,趙の時代の王様にまつわる逸話に,饅頭が,出て来るものは,無さそうですので,大河ドラマ上の創作だと思われます..和尚さんの謎かけのようですね・・・・

あっ、南渓和尚の語った肝心の昔話を紹介しておかなければなりませんね。その内容は以下の通りです。
「むかーし、趙(ちょう)という国に、道威(どうい)という王がおってな、道威のもとには、中と、泊という二人の大臣がおった。ある時争いごとが起こってな、どちらを追い出すかを決めるために、中と泊にそれぞれ二つの饅頭を差し出したのじゃ。二人ともその場で一つずつ食べ、中は残りの一つを腹の空かした子供にやった。泊は、それを後生大事に持ち続け、とうとうカビさせて食えぬようにしてしまった。さて、その後道威は、どちらに大臣を続けさせたかのう?」

さて、先に示したネット上のページから、この南渓和尚の昔話は、どうやら「実力伯仲」の「伯仲」という言葉から創作したお話だはないかということが読み取れます。
なので「実力伯仲」の語源を調べてみました。

伯仲はくちゅう) - 語源由来辞典によれば、
伯仲の「伯」は中国では兄弟の序列で最年長の人をさし、「仲」は兄弟の序列で中にある人、つまり次兄ををさすそうです。
従って「伯仲」は本来長兄(長男)と次兄(次男)を意味するものですが、この二人に大きな差がないことから、力が接近して優劣がつけられない状態を「伯仲」と言うようになったそうです。

つまり南渓和尚は、王様が優劣のつけがたい二人の大臣を試すために饅頭を二つずつ与え、その行動を推し量ったという例え話として語ったのですが、その結果王様は、、残りの饅頭を後生大事に持ち続け、とうとうカビさせて食えぬようにしてしまった泊を大臣として使ったのですが、その理由はこの後のドラマ展開の中で導き出されるのですが、、要するに結果として残った饅頭をカビさせてしまったものの万が一(有るかどうかは分からないが、もしもどうしても饅頭を必要とする事態)のためにそれを残しておいたことで、窮地を脱する事態を回避できる可能性を残すことは、生き残りの備えとして有効であり、無駄は無駄ではなかったということを和尚は次郎法師に謎かけをしたのです。

禅僧の説法とは言え、回りくどい話だとは思いますが、あえて直接的な答えを言わなかったことで、次郎法師に直親と夫婦になることについてよくよく考える時間を与えたということなのでしょうね。
井伊家の一女たるおとわに、当主となる者の幼名である「次郎」という名を冠した法名が与えられたことの意味の重たさを知らしめるために。
次郎法師に南渓和尚はそれほどの器量を見出し、以後の井伊家にとってその素養が必ず必要となる日が来ることを予期したからこそ。
つまり次郎法師は、井伊家にとってはその窮地に際する取って置きの饅頭だったのです。
にしても、可愛そうなおとわ。と、第三者は思いますが、彼女はそれで本望、幸せな生涯とおもったのでしょう。たぶん。

ちなみに、 (戦国) - Wikipediaによれば、
「趙という国に道威という王は見当たりませんが、周の穆王に仕えた名御者・造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている。」という記述があり、国の分封者として32代王威烈王の名があります。
威烈王春秋時代王朝第32代の王で、その頃周王朝が衰退し、王朝として存続できなくなったために、有力な家臣である大夫韓虔趙籍魏斯をそれぞれ韓侯、趙侯、魏侯に封じ、三家分晋と称される冊封を行った。これにより王朝の時代は終りの時代になりますが、それは中国における戦国時代の始まりだったのです。
もしも威烈王南渓和尚の言う道威ならば、三家分晋を行った際に、その傍らには、有能な大臣として伯に相当する人物がいたのかもしれません。知らんけど。

ですが、(イ)とは - コトバンクによれば、
威の文字には、
自然に人を従わせるような厳かさ。威厳。
人を恐れさせる強大な勢力。武威。「虎の 威 を借る狐」
という意味があります。
ということは、和尚は次郎法師に自然に人を従わせるような厳かさ、威厳、を示す道を説いたという作り話なのかも?
今回の脚本家は、どうやら漢字の意味に拘る方のようですね。

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小林薫さん演じる南渓和尚

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〜直虎:今川義元は、公家のような外見からはかけ離れた経緯で家督を得て
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』に限らず、ドラマなどに登場する今川義元は、公家のように顔に白粉を塗り、眉毛を剃り落として引眉を書いた公家のような面相をした武将として描かれます。
群雄割拠の戦国時代において、なぜ今川家の当主だけが、そのような姿だったのでしょう?

BSで放送された『片岡愛之助の解明!歴史捜査 今川義元⁻信長に敗れた桶狭間の戦いの真実を追え!』や今川義元 - Wikipediaなどによれば、
御所(室町幕府将軍家)が耐えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐとまで言われた将軍家の代わりになれるほどの名家だったそうです。
更に義元の母は、公家の中御門家の出身、血筋自体も公家と深く係っていた家柄だったとか。
そもそも今川家は、清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。
足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。
吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めた。軍功により副将軍の称号をゆるされた今川範政の子範忠永享の乱の戦功によって室町将軍家から彼とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けたため日本各地で栄えていた今川姓も駿河守護家のみとなったのです。
ちなみに、瀬名姫の関口家もこうした経緯で今川姓を名乗らなくなった家の一つだったのです。
義元の父:氏親は、それまで室町幕府の下で守護大名として生きて来た今川家を、戦国大名へと変えた人物でした。
しかし氏親は後年、いわゆる中風(現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられている。)により政務に支障をきたすようになったと言われます。
そこで氏親は、長男の氏輝を早くから指名、更に氏輝に何かあった場合には、次男の彦五郎を跡継ぎとする道筋をつけます。
そのため正室:寿桂尼の子でありながら5男だった義元が今川家を継ぐ可能性は皆無に等しく、そのため三男の玄広恵探、四男の象耳泉奘、五男の義元らは、出家して仏門に入ります。
ちなみに義元が出家したのは、おとわが出家した歳よりずっと早く、4歳の頃だったと言います。

元々の領地だった駿河に加え、遠江・三河をも手に入れていました。
この出家の際に義元の教育係として三顧の礼で父によって迎えられたのが、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』にも登場した雪斎禅師(太原崇孚雪斎:たいげんそうふせっさい)だったのです。
雪斎禅師が仏の道を義元に教育しただけでなく、京の寺や公家と関係が深かったことから、義元は雪斎禅師と共に若くして2度上洛し、京の五山の一つである建仁寺というお寺に入ります。
これにより義元は京において公家や有力な武家との人脈を広げて行くこととなります。
加えて当時のお寺は、当時の学問の最高学府ですから、義元は自ずから知識・教養を深めて行ったと考えられます。
そんな中、義元がわずか8歳の時、父:氏親はこの世を去ります。
そのため当初の予定通り、長男:氏輝が14歳で今川家の家督を継ぎますが、父の死からわずか10年後、24歳の若さで氏輝もこの世を去ります。
この嫡男の死には更なる驚きの事実があり、当時、今川氏と対立していた武田氏の家臣が記した『高白斉記』という日記には、「今川維持輝 同彦五郎、同時に死すとの記述があるのです。また、他の史書(「浅羽本系図」所収 今川系図)においては、「為氏輝入水 今川怨霊也(うじてるじゅすい いまがわおんりょうなり)」との記述があるそうです。
つまり今川の怨霊により、氏輝は入水自殺したというのです。しかも彦五郎も同時にこの世を去ったと言うのですから、尋常ではありません。
このような二人の死にまつわる奇怪な記述は、彼らが何者かによって暗殺されたと考えるのが普通です。しかし、それを裏付ける資料は、残念ながら残っていないのです。
二人の家督相続者が共に亡くなった事で、家督相続に名乗りを上げたのが、三男の玄広恵探と義元だったのです。
今川義元が駿河国の太守様となるには、雅な公家のいで立ちのイメージからはほど遠い、ドロドロの家督争いが家督争いがあり、それを制したのが、今川義元だったのです。

思うに、この家督争いに勝利した義元の陰には、雪斎禅師の出世欲が大きく働いたのではないかと私は思うのですが・・・・・・どう思われますか?皆さんは。

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雪斎禅師を演じている佐野史郎さん

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 〜我が家から見る光景:今朝(2017年2月11日)の雪景色は昨年の大寒波以上〜
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では、「今日(2016年1月24日)の天候については、数日前から40年来の大寒波が西日本を覆うと、耳にタコができるほど強く警報を発していました。
九州をはじめ、全国的には寒波が襲ったようですが、私の住む和歌山県橋本市には、メディアによって擦り込まれていたほどの雪は降りませんでした。・・・・・」とご紹介しました。

しかしこの冬(2017年)は、大阪府堺市より引っ越して足掛け三年間の中では最も風が強く寒い冬だと思えます。

和歌山県橋本市に一昨日より降り始めた雪は、積もっては解け、積もっては解けを幾度となく繰り返しましたが、今朝の光景としては以下のような状態となりました。
日本海側では大雪だと報道されている中で、橋本市の雪など大したことはないと言えますが、それでも中々の冬景色です。
我家の背後にある高野山では、さぞかし多くの雪が降り積もっていることでしょう。
実際昨日のニュースでは、南海高野線から高野線へと繋げるケーブルカーが雪のためにストップして、一時乗客が閉じ込められたとの報道も流れました。

この寒波は来週水曜日頃まで続くと予報されているようです。
いったいこれから我家から見える光景は、どこまで雪国のような光景になるのでしょうか?
怖いような、楽しみのような・・・・・。

10:20現在、我家の屋根に降り積もった雪は、随分解け始めていましたが、今また雪が降りはじめました。この先どうなる?

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今朝(2017年2月11日)の雪景色 1

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今朝(2017年2月11日)の雪景色 2

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今朝(2017年2月11日)の雪景色 3

  昨年2016年1月24日)の雪景色



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〜直虎:龍王丸こと北条氏真はなぜ蹴鞠比べで瀬名姫に妻にと約束した?
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第5回放送『亀之丞帰る』では、瀬名姫が次郎法師に送った手紙の内容を映像化したシーンが描かれ、今川義元の嫡男:今川氏真には相模の北条家との同盟を結ぶために北条氏康の娘を迎えたことを伝えました。
その中で瀬名姫は、幼い頃に氏真が蹴鞠比べで姫に負けたおり、手渡した約束事を記した紙切れを取り出し、その約束事を違えたことへの恨み言(皮肉)を、夜叉の面を被って能を踊りながら述べました。

瀬名姫が胸元から取り出したその紙切れには、どのような約束事が記されていたか、視聴者の皆さんはしかと読み取られたでしょうか?
そこには平仮名でこう書かれていました。
ほうひ(び)
せなひめをわか(が)つまに
      たつおう
つまりおとわ・瀬名姫・龍王丸(たつおうまる:後の氏真)らがまだ幼かった頃を描いた第3回放送『おとわ危機一髪』の中で、瀬名姫が次郎法師に宛てた手紙の中で、
おとわあねさまのてた(だ)てにならひ かち候
今川のつまのさ(ざ)は われのものになり候
                 かしく
と伝えた出来事で、龍王丸(今川氏真の幼名)から蹴鞠に勝ったほうびを記した覚書(証文)として瀬名姫が得た紙切れです。
ちなみに:かしく とは、手紙を差し出した相手をほめ、恐れつつしむの意で、女性の手紙の終わりに添える語で、今日では かしこ と言います。)
瀬名姫はその覚書を10年の年月を経てなお、大事に持っていたのです。
もちろんこれはドラマ上の架空のエピソードですが、瀬名姫の母は今川義元の側室であったこともあり、この頃には母は今川本家に繋がる瀬名家(駿河守護今川氏の一族である堀越氏の分流)の当主関口親永(瀬名親永)に嫁ぎ、瀬名姫はその姫でした。
ちなみに:瀬名氏は遠江今川家である堀越氏の分流で、堀越貞延の長男・一秀が瀬名郷を与えられたのが始まりです。つまり、瀬名の名前は、領地として与えられた瀬名郷の瀬名という地名から取った名なのです。
今川本家から分かれた一族の姫ならば、女性としての一番の出世は、関東での勢力を拡大していた今川本家の嫁になる事です。
瀬名姫が龍王丸(今川氏真)に恋していたかどうかは別として、戦国の世にあって少なくともお家にとってはその存続と栄達が第一に優先されるべきことです。
その事を示すように、第3回放送『おとわ危機一髪』の中で、瀬名姫は、「瀬名は龍王様の妻となって今川を我がものとします。」とおとわに語りました。
従って蹴鞠比べでの勝敗によるものではないにしろ、瀬名姫が龍王丸の妻になるための試みを行うことは極々自然な行動であり、両親は娘に対してそうすることを望む言葉を常に語っていたことでしょう。
このように瀬名姫が氏真の妻になるために蹴鞠比べに挑んだというドラマ上のエピソードは、史実として有り得ない話ではありません。

ではなぜその手段が蹴鞠比べなのでしょうか?

今川氏真 - Wikipediaには以下のような記述があります。
(氏真は)織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという。同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。
駿河に下向していた飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『醒睡笑』には、氏真が賀茂神社神官の松下述久に師事したことが記されている。

以上の記述にもあるように、氏真は朝廷との太いパイプを持っていた父:義元の影響により、幼い頃から公家のたしなみである和歌や蹴鞠の上達に励んでいたことは間違いありません。
当然龍王丸にとって蹴鞠は得意科目であり、余人に負けるはずのないものでした。
だからこそ、おとわや瀬名姫らのいかなる望みをもその勝利に対するほうびとして約束ができたのです。
自身が負けてほうびを与える事態など有り得ない事だからこそ、退屈を紛らわすために対戦相手を望み、勝って優越感を得るために。

こうした事を踏まえて、第3回放送〜第5回放送に至る瀬名姫及び龍王丸(氏真)にかかわるエピソードが描かれたのでしょう。

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鞠を手にした瀬名姫とおとわ

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