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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜直虎:徳川家康の正室となった瀬名姫は、本当に悪女?それとも・・・・
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前ページでご紹介したように、瀬名姫の母である佐名姫は、

「築山殿の母(ドラマ上では佐名姫という架空の名で描かれた。)は今川義元の妹で、つまり築山殿(瀬名姫)は義元の姪にあたるとされるが、「井伊年譜」や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によれば、実は井伊直平の娘で、今川義元の実の妹ではなく、養妹として親永に嫁したとされる。」という記述が築山殿 - Wikipediaにあります。

つまり佐名姫はドラマの中で描かれたように、井伊直平の娘であり、
その娘:瀬名姫は、直平の孫であると同時に、今川義元の娘であるという確信は得られてはいないのですが、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』では、「井伊年譜」や『系図纂要』『井家粗覧』の系図に沿って、佐名姫は直平の娘であることを前提に描かれてます。
なるほど井伊家に繋がる姫(井伊直平の孫娘)が、後に徳川家康の正室となったことにすれば、更にその後に井伊直政が徳川譜代の大名の中でも徳川四天王と称され、徳川幕府において幕末に井伊大老(井伊直弼)の暗殺に至るまで権勢を得たことを理解しやすくなります。
そしてこのことのみを前提にすれば、井伊家の繁栄は瀬名姫(築山殿)が徳川家康の正室であったからと言えるのですが、それでも井伊直虎の功績により井伊家が周辺の今川・武田・北条・織田などに滅ぼされずに存続がなければ、その繁栄は有り得ないことは言うまでもありません。

つまり簡単に言ってしまえば、徳川幕府における井伊家の繁栄は、瀬名姫(築山殿)と井伊直虎のどちらかの存在が欠けても有り得なかった事なのです。

そこで『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』を見て思い当たることがありますよね。
第3回放送での瀬名姫とおとわの出会い以後、二人は文を交わし、連絡を密にしている場面が描かれています。
瀬名姫から届いた文を、おとわなり次郎法師なりが受け取ることで、二人の親密度が描かれ、その文により、周辺諸国の情勢を共有するというかたちで。

第5回放送『亀之丞帰る』では、今川氏真が北条家の姫を迎えたことで、成長した瀬名姫は氏真の正室となることが出来ず、純真な少女から夜叉のごとき嫉妬心?を内面に持つ女性へと変貌したという心象的な映像が描かれました。

果たして瀬名姫とはどのような女性だったのでしょう?

築山殿 - Wikipediaによれば、
徳川家康(松平元康)正室。本名は不明だが一般的には瀬名、鶴姫、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)とも呼ばれる。築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
遠江今川家である堀越氏の分流瀬名家関口親永(または瀬名義広)の娘。よって、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。」
と記されています。
つまり、江戸幕府の始祖となった徳川家康の正室:瀬名姫(築山殿)は、本名すらも分からない女性ですが、室町幕府の重鎮の血を引く女性だったと言うのです。

この築山殿 - Wikipediaの記述から、瀬名姫の母である佐名姫が今川義元の側室であり、男女の関係があったとしても、瀬名姫は義元の子ではなく関口親永との間に生まれた娘だということがわかります。
一言:当初私は『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』での瀬名姫の母:佐名姫が今川義元の側室だったという描かれ方から、瀬名姫は義元との間に生まれた娘と勘違いしていましたが、関口親永との間に生まれた娘だったんですね。)

以上のことから瀬名姫の血筋を見て見ると、
父方である口親永(または瀬名義広)の血筋は、堀越氏 - Wikipediaによれば、
瀬名家清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、初代は今川貞世(了俊)である。遠江を本拠地とし当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる堀越氏の分流だそうです。
一方母方の血筋は井伊家で、井伊家は井伊氏 - Wikipediaによれば、
藤原北家の後裔(系譜上では藤原良門の息子である藤原利世の子孫とされる)として、江戸時代の『寛永諸家系図伝』で、公式に称している。おなじく藤原南家為憲流工藤氏)の後裔とする説もあり、室町時代後期以来「藤原」を称している資料は現地に残っている。
その他に継体天皇の後裔と称した越前国坂井郡国造三国真人の系統である三国姓とする系図を記した説も存在するが、真偽の程は定かではない。
とされています。

つまり瀬名姫は、清和天皇・藤原氏(大和朝廷以来の豪族)・足利氏(室町幕府を開いた)などに繋がるとんでもない由緒正しい血筋の姫ということになります。
一言:徳川家康の正室となった女性とは言え、ここまで殊更に幾つもの正しい血筋を受け継ぐ姫とされると、あまりにも出来過ぎた話で、にわかに信じがたいと思いませんか?)

さて肝心の瀬名姫の性格はと言うと、この件については家康の正室となる以前の人柄を伝えるものは無いようです。
ですが家康の正室となって後の評判はいたって悪く、一般的には悪女とされています。
これは、嫡子:松平信康の正室となった織田信長の娘:徳姫が、信長に送った手紙「十二カ条の弾劾文」にあります。
・瀬名姫が自分と信康の仲を裂こうとしている
・瀬名姫が女子しか産んでいない自分に乱暴する
・瀬名姫は贅沢三昧をしている
・瀬名姫は甲州の唐人医師・減敬と密会している
・瀬名姫は武田勝頼と通じ、織田と徳川を滅ぼそうとしている

と言ういう性格が悪いと言われても仕方がない内容ばかり。
これが発端となり、1579年信長は、家康に瀬名姫・信康親子を殺すよう命じます。家康は信康に切腹を言い渡し、瀬名姫を部下の手で殺害されます。
瀬名姫は40歳手前だったと推測されます。徳姫は子供を残して実家に戻り、二人の女の子は家康の手で育てられます。
一言:徳川家康の正室となったにもかかわらず、瀬名姫は悲運の最後だったんですね。)
そして瀬名姫(築山殿)の生涯を年表で解説。子供やその性格とは ...の管理人さんは、
これだけ見ると、「性格が悪いのはむしろ徳姫じゃないの?」という気もしますよね。
と付け加えています。
そして実は、この話は江戸時代になって書かれた『三河物語』に載っているお話なのです。『三河物語』は戦国の世を生き抜いた家康の家臣、大久保彦左衛門が、徳川家と大久保家の歴史をつづったもので、瀬名姫の実像を伝えるものではない可能性も記しています。

結局瀬名姫の実像は分からないのですが、本来純粋な性格だった瀬名姫が、幼い頃に望んだ?今川氏真と結ばれることはなく、意に沿わない家康と結ばれたことや、今川家が滅んだことで世をすねる一面が現れ、今川を滅ぼした信長の姫が我が子の妻となり、そのお互いの立場から瀬名姫と徳姫の仲が良いはずもなく、結果として徳姫が信長に宛てた文の内容が、瀬名姫の実像として後世に伝えらることとなったのではないかと私は思うのです。
今後瀬名姫が『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』の中で、どのような女性として描かれるかは不明ですが、ドラマの中で言描かれているような井伊直虎との文の交換の中で心の安らぎを得られていたなら、瀬名姫=悪女というイメージが、後世に伝わることはなかったと思えます。
結局直虎は、瀬名姫の竜宮小僧にはなれなかったんですね。

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瀬名姫を演じている菜奈緒さん

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〜直虎:徳川家康の正室となる娘を生んだ佐名姫(ドラマ上の名)の実像とは〜
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第3回放送『おとわ危機一髪』から登場した井伊直平の娘:佐名姫は、ドラマ上ではかつて井伊家を救うために今川家へと人質として送られ、その美貌からやがて今川義元のお手付きとなった悲運の姫として描かれました。

第3回放送『おとわ危機一髪』では、かつての佐名姫と同様に、おとわが今川領の中心地である駿府へと人として出向いたおり、佐名姫とその娘:瀬名に出会いました。
第3回放送『おとわ危機一髪』で描かれた瀬名姫はまだ幼く、おとわと同じ年頃で、今川義元の嫡男:氏真の妻になることを夢見る純心な少女として描かれましたが、それから10年後を描いた第5回放送『亀之丞帰る』では、氏真に北条家の姫が嫁ぐ事が決まり、瀬名姫の幼い頃の夢は破れ、今川家中において取り残される中、当時はまだうだつの上がらない若者にしか見えない竹千代(後の徳川家康)が、瀬名姫の姿を遠くから見つめる者として登場しました。
どうやら竹千代は、密かに瀬名姫に思いを寄せていることを描いているようです。
実際に歴史上では、本名は不明ですが後に家康の正室:築山殿となる女性こそこの瀬名姫だとされているそうです。
瀬名姫は今川家の妻となれなかったことが、幸運だったのかもしれません。
江戸幕府の開祖となった家康の正室が、どのような女性だったかについては、大変興味の持たれるところですが、その実像を探る前に、まずは彼女の母である佐名姫について知る必要があるでしょう。

戦国時代の世を今に伝える古文書においたは、常に女性の素性を伝えることは主眼に置かれていないことから、例え歴史上に名を遺す武将の正室であってもその生い立ちは概ね不明で、徳川家康の正室となった瀬名姫ですらそうなのですから、その母の素性も本名も当然のように不明です。

ですが『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』では、佐名姫は井伊直平の娘という設定で描かれました。
築山殿 - Wikipediaによれば、
「築山殿の母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたるとされるが、「井伊年譜」や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によれば、実は井伊直平の娘で、今川義元の養妹として親永に嫁したとされる。」と記述されています。
また、井伊直平 - Wikipediaによれば、
井伊直平の娘に該当する人物は一名のみで、「娘(今川義元側室→関口親永室)」と記されています。
これを『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』で描かれた通りに佐名姫の生い立ちを推察すると、佐名姫は井伊家存続のために当時の井伊当主の直平のもとから今川へと人質として差し出され、今川義元のお手付きとなって義元の側室になります。
しかし義元にとって佐名姫は一時の慰み者でしかなく、やがて今川の家臣である関口親永に下げ渡されてその者の妻となり、その結果生まれたのが瀬名姫だったといういかにも悲しい半生を過ごしたということなのでしょう。
ですが佐名姫が井伊直平の娘であったというのは、あくまでドラマ上の設定です。
佐名という名もまた同様、ありていに言えば名も知れぬ女性だったと言えるのですが、築山殿 - Wikipediaによれば、、「井伊年譜」や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によれば、井伊直平の娘で、今川義元の養妹として親永に嫁したとされるのです。

このように、古文書(史書)によって伝えられる瀬名姫の母(ドラマ上では佐名姫として登場)は、井伊直平の娘とされる記述もあるものの、今川義元の側室であったとか、井伊家より人質として今川家に差し出されて義元のお手付きとなったとの記述は無いようです。
ですがこれまで戦国時代を描いた時代劇や大河ドラマがそうであったように、今回の『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』においても、今川義元は悪役の武将として描かれています。
従ってそのような義元なら、井伊家の姫をただ自身の養女とし、家臣である関口親永に嫁がせたとするより、まずは己のものとした後に家臣に下げ渡したとすることで、佐名姫の悲運と義元の悪のキャラクターを際立たせた脚本を描いたと言えるのでしょう。

果たして瀬名姫の母の名は?その実像は、どのような女性だったのでしょう?
私的は、生か死かの戦いが日常だった戦国時代において、瀬名姫の母は、正しくこのドラマで描かれた通りの半生を生きたのではないかと思えます。
ただし、瀬名姫の母の素性を井伊本家の姫(井伊直平の娘)としたのには、後に徳川四天王の1人となる井伊直政を輩出した井伊家と、後に徳川家康の正室となる瀬名姫の素性を由緒正しいものとするための作為的な伝承だとも思えます。
皆さんは、どう思われますか?

ちなみに佐(サ)とは - コトバンクによれば、佐名姫の『佐』という文字には、
[音](呉)(漢) [訓]たすける すけ
わきで支え助ける。「佐幕王佐補佐
将校の階級の一。「佐官大佐
佐渡(さど)国。「佐州/越佐」
[名のり]たすく・よし
という意味合いがあるそうです。
つまり『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』における佐名姫は、悲しい運命に翻弄され、このような定めを背負わされた事で心の奥底では井伊への恨みも抱きながら、それでも井伊家の窮地を見過ごす事は出来ず、文字通り我が身を犠牲にしながらも井伊家をわきで支え助ける悲しくも優しい女性として描かれたのです。
言い換えれば、今回の脚本を手掛けた森下佳子さんには、そうした意図があって、直平の娘の名を佐名としたのではないでしょうか?

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花總まりさ演じる佐名姫

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〜直虎:『亀之丞帰る』では亀之丞の帰還に動揺する次郎法師の乙女心を描き〜
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NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第5回放送『亀之丞帰る』では、井伊本家の一女:おとわと亀之丞・鶴丸が、幼馴染として暮らした日々から9年の年月がながれ、今川から命を狙われる身となって姿を隠していた亀之丞が井伊谷に戻り、出家しておとわから次郎法師と名を改めた彼女の前に現れるまでが描かれました。

謀反人として父:井伊直満が今川義元に殺され、亀之丞も謀反人の子として今川に命を狙われる身となり、形の上では今川に従っていた井伊家は、亀之丞を今川に引き渡さなければならなかったにもかかわらず、亀之丞を井伊谷より逃がします。
その結果、今川に従わない井伊家は、義元の不興をかい、一人娘のおとわは人質として今川に送られましたが、人質とはならず、井伊家の本領も安堵を勝ち取るために、おとわは出家して次郎法師となったののです。

井伊家存亡の危機に瀕し、窮地を逃れるための一時的な策として当初おとわは出家したとされます。
なぜらなら父:直盛もそうであったあったように、次郎法師の次郎とは、井伊の嫡子の幼名だったことから、いずれ還俗(げんぞく)して婿を迎える予定でした。

ところが、いつまでたっても亀之丞は戻らず、10年の歳月が流れます。
この時今川家は、遠江の西側の隣国:三河に勢力を伸ばしつつありました。
次郎法師もすっかり僧として自覚も出来、領民が困っていれば、竜宮小僧を装って密かにその手助けをする平穏な日々を送っていました。

そんな中、今川に内通する井伊家の家老:小野政直は、井伊家における影響力も増し、重臣奥山家の娘を鶴丸こと小野但馬守政次の嫁にもらい、二人の間に生まれた男子を井伊家次期当主とせんと画策します。
この頃今川家では、嫡男:氏真に北条家より姫を迎え、これにより関東の今川・武田・北条は、三国同盟を結び、今川の勢いは益々増大します。
従って今川に内通する小野政直は、もはや井伊家においてもはや恐れる者の無い、絶頂期を迎えつつありました。

ところがそんなある日、政直は突如胸に激痛うを覚え、間もなく急死します。
これにより井伊家には今川に内通する者がいなくなります。
そこで井伊家当主の直盛らは、亀之丞を井伊谷に呼び戻すこととします。
しかしそれでも今川への手前、公に亀之丞を呼び戻すことは出来ません。
武田の戦火を逃れるため、亀之丞は隠れていた信州から戻って来たという建前上の筋書きもって。

長らく今川の支配に耐えて来た井伊家にとって、これは正しく吉報です。
ところが、井伊家もう二度とは会えぬと諦めかけていた次郎法師にとって、この亀之丞の帰還に、心穏やかならざるものがありました。
待ちに待った思い人が帰って来る事を予期しておらず、尚且つ出家の身であった次郎法師にとって亀之丞の帰還は、素直に喜ぶことも出来ず、今のままでは夫婦となることも許されません。

次郎法師は亀之丞への思いを僧にあるまじき煩悩として、山に籠って滝に打たれるなどして懸命に打ち払おうとしますが、その思いを断ち切ることなど出来るはずもありません。

そんな様子を見た小野政次は、「次郎さまの煩悩は凄まじいものじゃと思おてな。出家、出家と言いながら、どこかで亀之丞様と結ばれることを望んでおられるではないか・・・・。」と茶化します。
これに対し次郎法師は、「別に我は、そんな意味で記にしておるのでは・・・・。」と言葉を返しますが、政次は心を見透かしたように笑いを浮かべ、その場を去ります。
果ては寺の本堂の掃除に没頭することで煩悩を取り払おうとする次郎法師に対して、南渓和尚までもが、「次郎、次郎、大変じゃ。お主の煩悩で仏様が曇っておられるぞ。」とからかう始末。
果ては、まだ見ぬ成長した亀之丞の姿がその父:直満の姿となって夢にまで現れ、目を覚ます事態に及びます。

そしてついに見事な若武者へと成長した亀之丞が、ついに井伊谷に帰参します。
井伊家の人々はこぞって亀之丞を迎え、まずは館で酒宴をもってその帰還を祝いますが、その中に次郎法師の姿はありません。
その後亀之丞は寺へと出向き、山籠もりする次郎法師が戻るのを待ちます。
次郎法師は何も知らずに寺へと戻り、小僧の出迎え足を桶で洗っていたその傍らに亀之丞は寄り添い、「山籠もりはいかがでしたか?」とそっと手ぬぐいを手渡します。
暫くの後にようやくそれが亀之丞だと知った次郎法師は、動揺し、声も出せずにいました。
亀之丞はそんな次郎法師に「・・・・それとも、忘れてしまったか?」と訪ね、
次郎法師は「忘れるわけがあるまい。忘れるわけが・・・・。」と涙ながらに返します。

それから二人は井伊の井戸へと場所を変えて、二人だけで積もる話を語らいます。
次郎法師:「驚いたじゃろう、かような・・・・(姿の我に)。」
亀之丞:「出家した事は、和尚から便りで知っておったからな。おとわは縁談を断り、出家し、俺の竜宮小僧になると言ったと。」
次郎法師:「まとめると随分殊勝に聞こえるが、誠の顛末はなり行きと申すか・・・・。」
亀之丞:「俺はのう、おとわ。俺はそれを聞いて、這いつくばっても、井伊に戻ろうと思った。熱を出した時も、おとわの顔が浮かんだ。追手に斬られそうになり、山中をさ迷った時も、こんな所では終れぬ、もう一度生きて、おとわに合うのだと、俺が戻って来られたのは、おとわのお陰じゃ。」
次郎法師:「亀之丞様、もし、誠に感謝しておられるのであれば、これからは父上の子となり、助けてあげてほしい。妻を娶り、子を大いにもうけ、父上や皆を、大いに喜ばせてほしい。我は、ここで精いっぱい竜宮小僧をするゆえ。」
亀之丞:「いったい何の話をしておるのだ?おとわは、俺の妻になるのじゃろう。」
次郎法師:「何を?我はもう出家の身じゃし、・・・・」
亀之丞:「そんなもの、還俗すればよいではないか。」
次郎法師:「げん、ぞく?」
亀之丞:「俺は、おとわと一緒になるつもりじゃ。」

かくして、出家の身でありながらその実は純心な乙女の次郎法師の心は、千々に乱れるのでした。

つづく

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三浦春馬さん演じる亀之丞

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〜直虎:『おなごにこそあれ次郎法師』では、出家の苦難とおとわの成長を描き
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第4回放送『おなごにこそあれ次郎法師』では、おとわが出家することで井伊の本領安堵と自身が今川の人質となることを免れ、井伊谷に戻りますが、ドラマの冒頭、出家するということは、亀之丞の妻となる事も出来ない事を理解していなかったことを鶴丸に私的されます。
一言:前回のページでご紹介したように、8〜9歳のおとわが、出家をするということは、俗世を捨てるということ、つまり男女が結ばれる事も許されないことを理解出来ないのも至極当然です。逆に言えば、9歳で出家したという説事態が疑わしくもなるのです。)
しかしその後、妻にならずとも、出家の身だからこそ亀之丞を助ける立場となるには好都合な面もあることを鶴丸に教わり、改めて出家を決意します。
決意はするのですが、いざ主家の身となって出家修行の過酷さを身を持って思い知るや、修行の苦難に耐えかねて寺より脱走し、井伊屋敷の台所で握り飯を頬張ります。
つまり育ち盛りのおとわにとって、空腹はなにより耐えがたき事だったのです。
一言:誰しも年を重ねて大人になってしまえば、幼き頃の食に対する執着心がどれ程であったかを忘れてしまいます。ですが食品スパーなどにおいて、子供がお菓子などをねだり、母親がそれを拒絶すると、その場に泣きわめいて駄々をこねる姿を度々見かけます。そんな光景を見る時、「ああ自分も子供の頃はそうだったんだなあ。」と思い起こしたりしますよね。)
10歳に満たない幼女が、大人の修行僧と同様に苦行を行い、労働し、欲する量の食を我慢する日々は、今の現代人には考えられませんよね。特に飽食の日本人には。
恐らく、井伊家の一人娘であったおとわ姫もまた、現代日本人に近い感覚があったと思ってよいと思えます。
おとわの僧としての修行が続く中、井伊家では直平が獅子身中の虫である小野政直を親の仇とねらう武将を利用して政直暗殺を直盛に提案します。
しかし直盛はこれに賛同せず、政直を仇と狙う武将を退け政直を助けますが、「あの男は、我が心であったことが分からぬか?あくまでと言うならばもう容赦はせぬ。」と、刀を抜き、政直の野心に釘を刺し、亡き井伊直満の所領を我が物とすることは半分に諦めよと言い含めます。
これまで井伊家当主でありながら、政直の暴挙に見て見ぬふりをしていた弱腰の直盛が、このように政直に対して強い行動をとることが出来たのも、おとわの主家を不憫(ふびん)に思う心からでした。

一方おとわは、修行の中で空腹から逃れる術として、欲しいものがあれば托鉢(たくはつ)をすればよいと南渓和尚に教わり、闇雲に城下へ出て村人に対して托鉢を口実に食い物を求めます。
しかし村人はそんな次郎法師(おとわ)全く相手にせず、何一つ食物を得ることは叶いません。
そのため、空腹に耐えかねた次郎法師は、村人のすきを見て畑の作物(かぶ)を盗み食いしてしまいます。
いくら次郎法師が幼いとは言え、盗み食いなどという浅ましい姿を目撃した鶴丸は、次郎法師の不満を聞き、自身の次郎法師(おとわ)に対する恋心を押さえて「妻としてではなく、出家の立場から領主となった亀之丞を手助けする竜宮小僧となれば良い。」と教え、次郎法師も鶴丸の言葉に思いを新たにします。
次郎法師は、僧としての立場で竜宮小僧のように振る舞い、村人を手助けします。
するとそれまで全く次郎法師を相手にしなかった餅売りの男が、手助けの代償として売り物の餅を分け与えたのです。
高笑いをして「これは参った。」と言いながら。
托鉢と言えども、僧としての徳を己の行いで示さなければ何も得ることが出来ない事を次郎法師はこの時悟ったのです。

しかしそれから年月が流れるも亀之丞は井伊谷には戻らず、5年が経ち、次郎法師は幼女の姿から成長し、柴咲コウさん演じる次郎法師の姿になります。
5年後の次郎法師は、恐らく15歳前後ということになります。
私にはその姿が柴咲コウさんというのは少し飛躍が過ぎる気がし、ティーンエイジャーの女優をもう一人次郎法師として登場させても良かったのでは?とも思いますが、その時代のエピソードも多くは描けないことからすれば、一気に柴咲コウさんが登場するというのも仕方ないのかもしれませんね。

それにしても子役の新井美羽ちゃん演じる毬栗頭の次郎法師は、とっても可愛いかったですね。お疲れ様でした。

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新井美羽ちゃん演じる毬栗頭の次郎法師

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〜直虎:直虎(おとわ)が出家したのは亀之丞が消息を絶った直後?何歳の頃?
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』では、亀之丞の父:井伊直盛が今川に対する謀反の罪で命を奪われ、その罪が亀之丞にも及び、亀之丞は井伊谷から姿を消し、それは井伊家が亀之丞を逃がしたとして今川義元は、井伊家のの一女:おとわを人質として今川に差し出すよう命じますが、おとわは自らの考えで出家することで井伊家の断絶や、自身が人質ににあることも回避しようとしました。

果たして直虎は、ドラマで描かれたように、亀之丞が井伊谷から消息を絶ったその直後の幼い頃、つまりまだおとわと呼ばれていたに、本当に出家したのでしょうか?
そしてその直虎が出家したのは何歳の時だったのでしょうか?

BS放送で放映された、にっぽん!歴史鑑定『言い直虎はなぜ女城主となったのか?』によれば、
幼少期の直虎ことおとわが次郎法師という法名で出家したのは、今川家の追手を逃れて姿を消したのがおとわが8歳の時で、直虎のその直後の出家は9歳だったとする説。
その他に20歳の頃だったとする説があるそうです。
ですがにっぽん!歴史鑑定『言い直虎はなぜ女城主となったのか?』では、そのどちらの説も疑問を持ち、そそらく亀之丞が消息を絶ってからおとわが亀之丞を待ち続けることにあきらめの思いをいだくようになった頃、つまり亀之丞が消息を絶って5〜6年後の、15〜16歳頃に出家したのではないかいう考えが紹介されました。
そしてその理由として、直虎の出家が9歳だったという説に対しては、
出家という人生の重大決断をするには、9歳という幼さでは、その意味を理解した上での判断は難いと思われるとしています。
また、20歳出家説については、この頃には既に亀之丞は井伊直親として井伊家に戻って来ているそうです。
従って思い人が帰って来た後に出家するなどと言う事は考え難いというのです。
直親がなぜ井伊家に戻れたかと言うと、今川家に対し井伊直満が謀反を企てていると讒言した小野政直がその少し前に死亡したために、それを機会に直親は井伊家に戻れたと説明されていました。

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直虎を演じる柴咲コウさん

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