フリントロック式銃の構造
フリントロック式銃底部の構造
火縄銃底部の構造
上の画像の中の、Flintが火打ち石で、これが引き金を引くことでFrizzen(フリズン)に激突し、火花が発生して火皿の弾薬(火薬)に着火、それにより銃身内の弾薬(火薬)の爆発を誘発し、弾丸が発射されるのです。
そして以下は
フりントロック式の銃を討つ手順がよくわかる動画を以下に添付しておきます。
ですがフリントロック式の銃には大きな欠点がり、広くは普及しなかったそうでうです。それは、この銃の最も重要な役目を担う火打石が、高純度のものを必要とするという点でした。
海外では「火縄→フリントロック→メタルカートリッジ」と発展しましたが、日本は幕府による鎖国と実質的な銃規制により、「火縄→タルカートリッジ」と発展した世界でも稀な歴史があります。鎖国中の日本人は新しい銃を生み出そうとはせず、その代わりに火縄の扱いを極めていたので、メタルカートリッジが流入したあとでは、(主要な武器として)フリントロックに興味を示すことは殆どなかったと思われます。
生憎、国内でのフリントロック事情を詳しく記した資料を私は持ち合わせていないのですが、「世界銃砲史/岩堂憲人」には以下の興味深い記述がありました。
”ところで「カロンの日記」には、別に、短いが注目すべき記述がある。それは10月31日の項で、カロンが平戸商館の取り壊しを命ぜられる数日前のことである。この日、カロンは長崎に上使井上筑後守政重が到着したことを知り、歓迎のために謁見したが、その席で筑後守は2年前に前任のクーケバッケルに注文した火縄銃とフリントロック・ピストル(火打石を発火に使用する拳銃)がどうなったかをたずねている。
(ちなみに:築後は現在の福岡県南部で、江戸時代の鎖国政策の中にあって、唯一海外との交易が許された出島もこの地域に含まれ、井上政重が築後守に就任したのは1627年だそうですから、大坂の陣より随分後ですね。)
ヨーロッパにおいて、ヨーロッパでは火縄銃はすでに旧式化しており、井上築後守は銃が火縄式からフリント、つまり燧石(火打石)に発火機構が進歩していることを知って新型の銃を注文していたのであった。
和銃がこのような形態のままであったことには、たしかに鎖国や長期の和平が影響はしていよう。しかし、それらは決定的な要因ではなかったはずである。なぜなら、燧石式の銃がまだヨーロッパにおいても新式の銃として出現してそれほど時間のたっていないこの時期に、幕府の要人は、すでにそれをオランダ人に注文している(カロンによれば紀州候徳川頼宣も同式銃と手榴弾の注文をしているという)のであってみれば、幕府もこの種の銃に対してやはり強い関心を持っていたと考えるのが妥当である。したがって、筆者としては和銃が火縄式のままで幕末まで推移していったということの裏には、幕府の意図が感じられる。それはいうまでもなく、新しく威力の兵器の国内流布への拒否反応により、意図して火縄銃のままにおかれたのであろう、ということである。
そしてそのフリントロック式の新式銃の構造の隠ぺいは、大坂夏の陣において幸村が撃ち損じた後、は戦利品として紀州徳川家が馬上宿許筒を補完した時から始まっていたのです。
(一言:そりゃあ徳川家としてはこんな物騒なフリントロック式の銃の存在が、一般に知られることは、たった一人のスナイパーが存在するだけで、いつ何時将軍が狙われるかもしれませんからね。何しろ、家康はその恐ろしさを、身を持って体験したのですから。)
フリントロック式銃の射撃手順は、
1.弾薬嚢からカートリッジを取り出して薬包を噛み切り、弾丸を口にほおばる。
2. コックを一段階引き、当り金を開けて火皿に点火薬(装薬の一部)を入れ、また閉じる。
3.銃身を垂直に置き、銃口から発射薬(残りの火薬)を注ぎ、次に弾丸を挿入する。
4.込め矢を引き抜き、これで装薬と弾丸を銃身の奥まできっちり押し込む。
5.込め矢を元の位置に戻し、コックを最大限に引いて発射装置を整える。
6.射撃姿勢を取り、照門の窪みに照星が来るようにして照準を定め、引き金 を引いて発砲する。
(一言:上に示した動画を見れば分かると思いますが、弾薬は火皿に着火薬としてその一部を入れ、更に銃口から銃身内に残りの火薬を銃口から発射薬として入れなければならず、都合2か所に火薬を入れなけらならないのです。現在の弾丸のような薬莢が無いために。)
薬莢のある現代の弾丸
発砲は、通常は毎分2〜3発です。
実際の戦闘では長時間の射撃戦となるのでこの程度の発射速度が普通なのです。
早く行う場合の毎分5発ぐらい。6発以上だと1発の争点に10秒以下となるので
現実的なスピードとはいえません。
実用というよりも、練習とか”賭け”でできるぐらの速度ですな。
また毎分5発といっても、人間には疲労というものがあるので、
せいぜい続けられるのは数分程度でしょう。
また間隔を空けずに連続発射すると銃身が加熱して持てないほどに熱くなるだけでなく、
12発以上撃つと、これによって暴発しやすくなるため、危険も増します。
だからスピードには自ずから限界があるというものです。
以上のように幸村が家康襲撃に使った馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) は、せいぜい一分間に2〜3発程度で、それが馬に跨り、敵陣へと突入する場合では、1発を発射するのが精いっぱいでしょう。
また、その射程距離は、従来の銃身の長い一般的な火縄銃で50〜60mなのに対して、馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) はせいぜい20〜30mだそうです。
ですがただでさえ銃身が短くて命中率の低い馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) を不安定な馬上から撃つには、10m前後の距離から撃つ必要があったでしょう。
その射撃の間合いは、家康の身辺警護をする武将が数歩進み出れば、その槍先が幸村の馬に届く範囲内であったことは十分想像できます。
ネット上では幸村が家康を今正に討とうとする時に銃を落とすなんて「ドジ。」なんて書き込みも見受けられますが、最新式とは言え馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)の射程距離 は、長槍のそれと大した差は無かったとも言えるのです。
ドラマ上では馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) が利休の茶室跡の畑から、箱に入って2丁出てきたのですから、ツーハンド、つまり二丁拳銃(にちょうけんじゅう、二挺拳銃とも書かれる)で家康を襲撃していれば、あるいは家康を仕留めることができたかもしれません。
ですが敵陣に斬り込むためには、左手に銃を持ちながらも、右手には刀を持っていなければ、敵兵の切先をかわすことはできなかったとも考えられます。
(一言:あっ、そうか、馬の手綱も引かなければならないのですね。)
果たして『NHK大河ドラマ 真田丸』における終局では、幸村の家康本陣への襲撃はどのように描かれるでしょうね?楽しみです。